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爆撃された想出の八月六日 
藤元 敏子(ふじもと としこ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1945年 
被爆場所 広島市田中町[現:広島市中区] 
被爆時職業 医療従事者 
被爆時所属 井倉内科病院 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

「ピカドン」と云っただけでぞっとする。唯か付けたか解らぬ名称。

「ピカドン」の一日の想出

深い眠りより眼が覚め、何時もの如く朝の炊事も無事済ませた。嬢ちゃんも起き出で食事も済み片付けて潔ぎよく「行って参ります」の挨拶に「行ってらっしゃい」と返事して共に笑顔を互したのも病院生活の最後にならうとは夢にも想わなかったのに・・・・

例の如く掃除に掛る。洋間を掃き終えた時「ブーン」とB29独特の爆音が聞える。変だなあと思っていると隣の大野の奥様の「今のはB29だけどおかしいね」と話声が塀を越して聞えた。

矢原・有田さん共に七時頃より起き出で「お早う」を互に交し乍ら仲よく掃除する。警報入る。別に気にも止めなかった。外庭もきれいに掃き終えたので漸く食卓に三人揃って向う。

未だ先生お目覚めの様子もなく「グウグウ」と寝いびきで休んで居られる。昨夜の空襲にて長時間竹屋小学校に居られたので今日は又遅いよと語り合った。

自分も更衣もせず掃除した侭のボロ洋服だった。

大豆の入った湯粥をすすって終い、大豆を煎ったのを鍋事持込んで色々と話乍ら食して居た。

警戒も解除になって、ほっとした。

漸く時間が立って後、不意に「ピカッーシュウー」と異様な臭気のある閃光が病院の方角より部屋の窓に光って来た。三人一斉に「あっ」と云う間もなく「ゴー」と物すごい音と同時に土煙と家屋の重圧を受けて其の侭臥せてしまった。

暫くは無我夢中の侭、土煙でむせ返る様な呼吸を続けて居た。未だ生きていたと云う無気味な程不思議な落着と神様の事等考え乍ら合掌してしっかり手に力を入れていた。頭だけは体を離れて今迄の追憶の一齣一齣が頭の中をグルグルと回転して色々と想出して居た。

有田・矢原共に大声をあげて助けを求める。「助けて、助けて、助けて、助けて」と耳をつんざく様に幾ら叫んだって只ゴウーゴウーたる雑音にかき消されて何も聞えない。有田さん「金田さん死んだか」と尋ねる。これはと思って「生きとる」と叫んだ。「何故おらばんか」と問う。それならおらぼうと今度はあるだけの力で助けを求めた。ふと先生の事が頭に浮んで来た。「先生は」と尋ねると今度は三人して「先生、先生、先生、先生」と悲鳴をあげて叫んだ。けれど先生の返事一言もなし。

もうパチパチパチパチと火の手の上った音が間近に聞える様だ。然し三人は死と云う事が目前にある事も忘れた如く色々と話出した。矢原さんなんか今日は考査(テスト)があるのだけどもう駄目だなんて云って笑わせた。

ふと気が付くと次々に重みが加わった左足は自由がきかなくなってしびれ、もう自分の足ではない様な気がする。

左手の方に水が流れている様だ。矢原さんは頭をやられたらしく水が落ちると云っている。手で障って見るとベタベタする。血液の感じだ。真暗い中でよく解らぬ。自分は生き乍ら火で焼けて死ぬのではなからうかと思った。生き乍ら?

もう駄目だと思う。すると母親の顔が浮かんで来る。今頃母は何しているだらうと思うと何だか切ない。自分は憎らしさと相手のない堪え難い怒といきどうり、何といえない涙の出る様な気がした。然し乍ら死と云う物が自分らより何か遠い世界にある様に思え、例え死んでも三人共に居ると云う事が幾らか安心の地を求めた気がする。

背中の方が熱い感じがした。これは死が迫ったと思わず最後の助けを助けてーと求めた。この時神の引合せとでも云うものか、やっと有田さんの足の方からかすかな光がさし込んで居る。さあ助かると云うので手当り次第邪魔物を除けて外に出ようとあせる。仲々重いのとあせるのとで自由がきかぬ。あせればあせる程重みがかかる様だ。でもどうにかもがき乍らやっと矢原さんと共に屋根を破る事が出来た。矢原さん頭が出ると喜んだのも束の間、肩より下が出ぬと云う。嬉しかったり悲しかったり、どうしたら出るねと尋ねては邪魔物を除けて行く。片手でやるのだから仲々はかどらぬ。どうにか体は抜け出した。さて腰から下が出ぬと云う。さあもう少しだから頑張れと臀部を押したらどうにか抜け出した。胎児の分娩機転に似かよった有様だったらう。

今度は自分を出して呉れると云うので非常に嬉しかった。小さな木でも頭上にあるので出る事が出来ない。頭を押し付けて出口の方へやってくれた。パチパチと火手が来てるので矢原さんしきりに恐れて早く早くと云うけれど手に力がないので出られない。矢原さんに手を引いて貰って漸く抜け出した。眼前にあるものは滅茶苦茶になった家の屋根、あのコンクリートを誇っていた病院もあえなく地上にひしゃげ本宅の上に重っている。一方はもう火の海と化して居る。今にも自分等をのみ込まんとして居る様でペロリペロリと近づいて来る。先刻迄居た所はとても小さな穴であった。よくあんな所に二人も居たものだと感心する。鍋と蓋がころがって居る。さあ次は有田さんを助けねばならぬけど位置が解らぬ。どこかと聞いても返事のみする。病院が本宅に重なっているので一向に解らぬ。三人共に居たのに有田さん解らぬ筈はないのだけど、二人して病院を殆ど除けられるだけやって見たけどやはり姿が見えぬ。有田さん、有田さん、有田さんと一心に叫び乍ら探すのみ。「此処よ。早く助けて」との返事のみする。

ああ何と情ない事だらう。先生、先生と叫んでも、もう先生の方向は火の海で返事はない。有田さんの足を探すのだけど見えぬ。中に居た時は僅か触れたのだったのにどうした事か。グヅグヅしていると火の中に包まれて死んでしまう。幾ら探しても解らない。何時迄も此の侭ではと、もう逃げようと「有田さんご免よ」との言葉を残して、つらい悲しい気持の侭病院乗り越えて逃げた。

前の防空壕は安全な姿で存在している。先生と有田さんを残した侭泣く泣く矢原さんと共に逃げる。有田さんうらむと思うと逃げる気もなし。

有田さん許してねと心の中で叫びながら―‥。

然しすぐに良心がとがめて只放心した様にぼんやりと立止ってしまう。でも一人でも早く安全な場所へ急ぐべきと励まし会って逃げて行く。皆真黒く土にまみれ血にまみれてあわれな姿。皮膚がずっとむけて赤身の出ている人もある。元気のよいおじさん「これに負けては成らぬ。元気を出せ、元気を出せ」と励まし声に「そうだ」と答えている人もある。まるで地ごくの国に居る様だ。

鶴見橋を渡って比治山へ行こうと云えば比治山は危いとの事で、此処に河村(患者)宏ちゃん兄弟が居た。可愛想に父さんも母さんも解らなくなったとて隣の人達と共に居た。こんな子供も沢山居るだらう。河村さんを残して比治山へは行かず人波に混って行く。顔の血を除けようと水の出る所で矢原さんと洗った。他の人達にも水を押して上げた。傷口に水が浸みて痛みを感じた。立ち去らうと思ったら知らぬ人が抱きついてきた。どうしたのと聞くと眼をやられて見えぬので一しょに連れてって呉れとの頼み。これは困ったと思ったが同じ負傷を受けた気の毒な人と思って連れて行く事にした。

矢原さんに右手を引いて上げてと頼むと、いやな顔をしたけどこの侭置いて行くと焼け死ぬると可愛想だからと二人で引いて急ぐ。目前は焼けつつある。

モウモウとした黒煙とあつい熱気がむっと顔に吹きつける。パチパチと音を立てて火の粉が自分等に向って来る様に思える。電車道に落ちて居る木片や葉等盛んに燃えている。急いで下さい、焼けよるんですと火の中を走り続けた。とても暑かった。その時は只走ると云う事が自分の不安を除く唯一の希望と思えた。大分走ったら急にその人坐り込んで立たなくなった。もう力が尽きたとの事。丁度其の附近に安全と思える所へ二・三人坐っていたので、これ幸いと其の人達にお願いして此処にいて下さいと頼んで又二人で走り続けた。

衰弱はしていたけど、あすこ迄助けたと思うと嬉しかった。矢原さんも真青になっている。相当出血したらしい。

私も恐らくあらゆる表情を失って眼ばかり大きく見開いた青い顔をしていた事と思う。どこをどうして逃げて行ったのかもう終りには解らなかった。硝子の破片が道路に散在しているので甚だ危い。はだしで走るのに傷をしないのが不思議だった。

樽谷のおじさん、おばさん、敏ちゃんに会って共に逃げた。皆同じ様にあわれな姿態である。敏ちゃん、先生や有田さんの様子を話したら、好い人だったのに惜しい人だったのに等と云われる。おじさんおばさんも先生の事を聞いて非常に惜しまれた。

ああ如何したらいいのか。自分を皆してせめている様で実につらかった。いっそあの時有田さんと共に焼け死んだらこんなに苦しまなくてもよいだらうにと迄思いつめたが後の祭り。有田さんを置き去りにしたので何時迄も苦しまねばならぬ。これ程迄自分は悪い人なのかと思うと自分がにくらしくて残念でならなかった。もう二度とこんな事をすまいと思う。

傷口の手当が大切と府中の中国配電迄たどり着いた。

途中で比治山高女の生徒に出会ったけれど嬢ちゃんは見えなかった。如何しただらうと心配になる。中配に居た者に死傷者はないとの事で幾らか安心した。此処にて応急手当を受ける。医師会に勤めて居られた藤原さんに矢原さんの手当をお願いして上げた。樽谷のおばさん、敏ちゃんには他の人にして貰った。おじさんは鼻が半分落ちかかって居るが五人の中で一番元気がよい。自分もと頼んだが材料不足の為その傷には出来ないとはねつけたので矢原さんにして貰った。おばさんにカンフル二本して貰った。又空襲と云うので防空壕へ飛び込んだ。小さくなっていた。後で聞けばトラックの音だったとの事。トラックの音にも敵機かと耳を傾ける神経が鋭い。壕を抜け出しておばさん達の顔をきれいになる迄拭いてあげた。五人の中でおばさん一番重傷である。時々痛いと無意識の中で手を傷口をおおい乍らも、ぐったりと眠っている。「水々々々」「水を頂戴」とあちこちひっきりなしに叫ぶ。悲惨と苦痛と混乱の中にさしもの広い所もすき間のない程負傷者で一杯に埋っている。傷の手当、水の供給等休みなく続けられる。水も余りないらしく困っている。

「コリャどうか、気の毒で目も当てられぬ」と応援隊の人々が云っている。実際云われる通りだ。

一眼見ただけで嘔吐しそうなのだ。特有な臭気がみなぎっている。悪寒を催すもの、衰弱甚だしき者、あちらこちら一杯である。自分も水の供給を手伝ってあげた。可愛想に今にも此の世と別れるのではないかと思える人も沢山居た。少量の水を口中にそそいであげれば、おとなしく飲み干してしまう。

動員で行ってた女学校の生徒。お母さんお母さんと叫び乍ら「痛い」「寒い」「水」等あちこちで叫ぶのを聞いてると涙が出て来そうだった。

此の世に母程慕われるものが何処にあらうか。最後の叫びは皆お母さんとなるのだらう。

今度はトラックで第二の手当を受けに青崎の国民学校に運ばれた。矢原さんと共におじさん達と別れて一足先にトラックで一杯のすき間もなく車中の人となる。途中乾パンを貰ったのを車中の人々に分けてあげたら皆大喜びだった。小さな五つ位の子供に一番沢山あげたら母親らしい人何度も何度もお礼を云われた。

トラックがゆれるので傷に当って痛みを感じ悲鳴を上げてる。実にあわれなものだった。国民校では医師、薬剤師、看護婦等、救護に当って居られた。

尾上さんと矢原さんの同級生が居て親切にして下さった。此処でも患者がぎっしり一杯だった。手当は尾上さん達のお蔭で早くして下さる。やはり知人が居て幸いだった。肘の縫合して貰った医師は此の人達の勤めて居られる先生との事。とても親切に優しくて嬉しかった。色々とお話をして、気の毒だったねと親切に云われた。

クレゾール液、赤チン等汚れて黒ずんた色をしているので消毒も不完全な気がした。生れて初めて縫合して頂いて、とても痛く涙が出る様だった。手当が済んで二人の青年の人が又友達の如く草履迄持って来て呉れたりよく気をつけて下さった。

長い事仮の手術室に居れば嘔吐しそうな気がしたので一番端の教室に行った。最初は二人きりで淋しい位だった。度々矢原さんと二人の所へ四人で見舞って下さる。

何とも云えず只嬉しかった。食事の時は、お握り、お粥、重湯と患者に好みに合せて配って下さる。

矢原さんにカンフル二本して貰ったので大分元気付いた。府中へ行く道を聞いて見たけど遠いと云うので其の日は此の侭居る事にした。夕方より寒いので矢原さんブルブルふるえて居る。見張りの人に頼んで掛ける物を持って来て貰った。何もないのでこれにてと親切に云われて差出された物はボロボロの砂だらけの莚だった。でも有難かった。莚につつまって休むことにした。

流川に居た人と三人になって仲よく話したりした。夜中又空襲と云うので運動場に逃げ出した。実に恐かった。昼間のに倍して恐かった。又やって来るかと敵機が憎らしくて憎らしくて、きっとこの仇は取ってやると心に刻み込んだ。解除になったがやはり校舎には帰らず夜の神経をいら立たせる蚊に悩まされ乍らも敵機の来襲の恐れと夜空を焼きこがしはせぬかと思える暗黒な煙と赤い焔とを眺めつつ夜明迄あちこちと位置を替えてはまんじりともしなかった。

先生と有田さんの事が気になり、ろくに眠れなかった。

一瞬にして大砂ばくと化した広島。賑やかな平和だった広島も廃墟と化した。世界にかつてない異常な出来事だった。一生忘れられないピカドンの一日だった。

有田さんは二人が逃げた後でとてもくやしくうらんだと云う。それもその筈、何度詫びても詫び切れない。許しては呉れたものの自分の良心は何時迄も忘れさせないから一生この侭だらう。

そして大分もがき乍ら助けを求めて力を出したら二人の居た穴に出られ足より抜け出したのだそうだ。そして比治山にて一休みして府中迄逃げておられた。

衣服は自分のが一番よく破れてあわれな姿だった。次が矢原さん、そして有田さんだった。有田さんのは一寸と破れたのみ。

先生はとうと犠牲になられ何とも云い様のないお気の毒な次第なり。矢原さんと自分は同じ位の負傷、有田さんはかすり傷だった。自分のはズロースだけ助かった。服は裂け血だらけとなったので府中の川へ置いて帰った。

嬢ちゃんは元気だった。着のみ着の侭、これ又非常に気の毒なり。皆生命はどうにか助け出された様な次第なり。

「何不足 人ははだかで 生れたり」この気持があれば。

悪夢の日八月六日、然し再生、日本はこの日を契機として胎動し始めた。計り知れない現実の力に押し流されつつあった人々も新しく出発したのだ。

冬の後には春が来る。冬の厳しさの中にて培われた生長の力は春の訪れと共に新しく萌え出でばならぬ。私達の人生にも新らしい春の来らん事を祈りつつ。
 
昭和二十年八月 記す
平成七年七月 之を写す

 

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