私が十八才の時でした。当時は五日市のおばさんの家に居て農業の手伝をして居りました。
昭和二十年八月六日八時十五分その日は暑い日でおばさんの家の外で麦を干しておりました。ピカーとなま暖かい光線が光ったと思ふとドーンとものすごい音がしました。私はすぐそこにふせました。しばらくするとおばさんが大きな声で「爆弾が落ちたでー。」
私は家のほうをふり向いて見ると爆風で障子が全部紙が破れ、天井がはずれて座敷へぶらーんと天井がさがっていました。東の空は黒い雲と白い雲が天にのぼっていました。少しすると小さい紙切れが夕立ちのようにとても多くさん降って来ました。すぐ私は干していた麦をたたんで家のそばに持って行って積み上げました。紙くずはまだ・・空から降っていました。
その日の十時頃からけがをした人が髪の毛は灰で汚れおばけのようでした。モンペをはき、それにはだしで、下から(広島の方)道路づたいに逃げて来られました。村の人は総出で爆風でこわれた八幡小学校の講堂の窓ガラスを片づけ、むしろを敷き多くさんのけが人を収容されました。
「広島は大きい爆弾が落ちて火の海じゃ」と夜おそく救助の人が帰って来ました。
私達、終日村の人が言はれる通りに大急ぎで近所の婦人会の人と御飯を何回もたきました。炎天下でむすびが早くいたむので梅干しを入れて作りました。大きな箱に十箱以上作って町へ行く係の人に渡しました。
私達は三日目三時頃おじさんと近所のけが人を連れ戻しにトラックに乗って迎へに行きました。途中楽々園でトラックから降りました。海水浴場だったのですが、戦争で陸軍部隊になったのです。多くさんの馬が居ました。町から多くさんけが人があがって来ました。平屋の長い牛舎から馬を全部外へ出して、そうじしてむしろを敷いて、そこへけが人が並んでいました。
苦しそうに横たわって居られました。「水よ水水」と目をつぶった人、やけどで痛い痛いと言ふ人、小さな子供もいました。枕もとには食べ物が少しずつ置いてありました。係の人が廻って見ては死んだ人をつぎつぎと山の方へ運んで行きました。そして火そうしました。多くさんの煙が空に上がっていました。私達は再びトラックで己斐町を通って、広く焼け落ちた町は観音町と言ってもわからず、がれきをのけた間を通っておじさんの知人をさがしました。私達がトラックで行ったのが分かったのか、ぼろぼろの衣服をまとった男の人がすーと立って「すみませんのう」と小さいの声でそろりそろりとトラックの方へ歩いて来られました。おじさんはトラックの下から長いアユミを出してトラックへ上れる様にかけてあげました。おじさんは「上れますかのう」と言いました。「ええ」と其の人は返事をして手を取ってもらって上がられました。少しはなれた所から戸板に乗せた工場主の奥さんをおじさん達が二人でさげてトラックにねかせました。
もう一人若い女子工員さんを戸板でトラックへ運びました。破れた白い服、手には腕時計が深いやけどの手にはまっていました。地下足袋もやけどのはれた足にくい込んでいました。虫の息で「水、水」と言って居られました。目も口もやけどでつぶれていました。私達はガーゼに水を含ませてあげました。私のモンペに娘さんのやけどの皮がベラーと広くとれて私はびっくりしました。日が落ちてあたりをみると缶詰工場の焼け残りの火がポーンポーン空に上っていました。けが人をのせてゆっくりゆっくりとトラックが八幡へかえりました。
五日市の山には多くの人を焼くにおいがして火がもえていました。恐しい戦争は絶対にしてはいけないと思います。
|