(私は四つ歳下、広島市安佐南区在住、有縁の方々から寄せられた情報を基にこの文を綴る)
一夫兄は、大正一二年一〇月六日
広島県沼隈郡神村(カムラ)(現・福山市神村町)で表 竹市・カヅエ(共に明治三三年生まれ)の長男(第二子)として、この世に生を享ける
昭和五年四月神村尋常高等小学校入学
昭和一六年三月沼南実業学校卒業(第一四回)
同年四月神村役場に就職し、農業改良普及事業に従事
兄は、家族思いの総領であった。
追いかけられる立場の兄弟げんか、近所から苦情が出るほどの悪戯(いたづら)、登下校前後の畳表織りなど・・・思い出は尽きない。
昭和一九年三月 陸軍の広島第二部隊に入隊
部隊の大半は支那(現・中国)へ移動したが、事務的才能を買われてか広島に残留。
あの瞬間、広島城の東側の事務所でガラス窓を背に執務していた。爆風によるガラスの粉塵は後頭部・首・背中などに容赦なく突き刺さった。
痛さをこらえ、ようやく縮景園に辿り着いた。大野浦臨時陸軍病院(小学校の建物)に収容され療養。回復しないので帰郷を申し出た。
九月一日 発熱と歯茎からの出血の状態で汽車に乗り、松永駅で下車。約二キロメートルの道を徒歩で帰宅した。
驚き飛び起きた家族は近くの歯医者に氷と薬を分けてもらい懸命に看病した。
(大野浦の病院にあった)兄の荷物を持ち帰った父は呼び掛けた。
兄は「大丈夫、大丈夫・・・」と答えながら息絶えた。
時に九月四日午後二時半
遺骨には、うす青いガラスが溶け込んでいた。逆縁に遭った父母の嘆き悲しみは計り知れない。
次の墓碑銘は、父の作である。
昭和十九年三月広島第二部隊ニ入隊時恰大東亜戦争中仝二十年八月六日原爆ノタメ重傷ヲ受ケ大野浦臨時陸軍病院ニテ療養其ノ後九月一日帰郷療養トナリシガ症状頻ニ革リ仝月四日竟ニ無念の戦病死ス
院号法名は、広教院釋浄真居士
優しかった兄
気力を振り絞って生家に辿り着いた兄
青春を謳歌しないままあの世へ往った兄
一夫兄よ 思い出
ありがとうございました
平成一四年二月
合掌
|