●小さいときの暮らしについて
当時、私の実家は広島市楠木町四丁目にありました。長男の髙杉栄、次男の海三、三男の判次は既に軍に入隊していたため、家にはいませんでした。五女にあたる妹も、小さい頃に亡くなっており、私が海軍に入隊するとき、実家では、父の亀八、母のヒサヨ、長女の綾子、次女の末子、三女の夏子、四女の富士子そして私の七人で暮らしていました。
両親は八百屋を経営していました。八百屋といっても、雑貨も売っていましたし、食堂もしていました。食糧不足と言われていた時代ですが、家が食べ物に関わる仕事をしていたこともあり、食糧に関してはあまり不自由をしませんでした。私の家は他と比べても裕福な家庭だったのではないかと思います。学校の同じクラスのみんなにあめ玉を配ってあげたこともありました。皆「たっちゃん、ありがとう。ありがとう」と喜んでくれ、そのことは今でも懐かしく思い出します。
●海軍に入隊
昭和十七年に三篠国民学校高等科を卒業後、私は広島県庁に就職しました。就職してから一年後に軍の入隊を志願して試験を受けたのですが、視力の試験で落ちてしまい、不合格になりました。それから約半年後に再び試験を受けたところ合格し、昭和十九年、私が十六歳のときに、海軍の飛行予科練習生として入隊することになりました。
予科練習生の生活は、とても厳しいものでした。上官にあいさつをする際、声が小さいと精神注入棒という、海軍独自の棒でお尻をたたかれるのです。あいさつをやり直してもまた「声が小さい」と言われ、何度も何度もたたかれました。そして、たたかれると気を付けの姿勢で「ありがとうございました」とお礼を言わなくてはいけないことになっていました。
あいさつ以外にも、同期の誰かが失敗してしまうと自分が失敗していなくても、連帯責任として全員がたたかれていました。当時はそれが日課のような状態でした。
私が海軍に入隊して初めて配属されたのが、鹿児島県桜島基地の、海軍航空部隊でした。配属されて間もない頃、私の母は広島から汽車で何日もかけて私に会いに来てくれました。母は私に会うと「我は頑張れよ、頑張るんぞ」と言い、抱きしめてくれました。私は男兄弟の中では末っ子で、兄たちと歳が大分離れていたため両親にとてもかわいがられていました。それもあってか母はよく面会に来てくれて、サツマイモや、甘いものを差し入れとして持ってきてくれました。母が面会に来て私を抱きしめてくれたことはいまだに忘れられません。
予科練習生を卒業した後は、第六三四海軍航空隊の水上偵察機「瑞雲」の搭乗員として、呉市、佐伯郡大竹町(現在の大竹市)、鹿児島県、そしてフィリピンまで赴きました。
●呉での思い出
航空部隊の訓練で、班長と一緒に水上偵察機に乗ったときのことを思い出します。班長が前席に、私が後席に座りました。私は飛行中、いつ落とされてしまうかという恐ろしさから取手をずっと握っていました。このとき、班長から「その手を離したら落ちるぞ。落ちてもしかたないと思って覚悟しておけ。貴様、気合を入れとけ」と言われ、肩をたたいて励まされたのを覚えています。
訓練が終了し、海に着水しようとして降下していたとき、橋の欄干に水上偵察機の機体が当たりそうになりました。それが原因でバランスが崩れて、水面に突っ込んでしまいました。私は手旗信号で助けを求め、なんとか部隊の隊員に助けてもらえたのです。私が半分泣きそうな顔をしていると、班長に「男なら涙を流すな」と怒られてしまいました。それから格納庫へ飛行機を運んだのですが、格納庫に入ったときに改めて命があってよかったと思い、そこで隠れて一人で涙を流しました。この班長はとても良い人で、私はずいぶんかわいがってもらいました。
呉にいるとき、空襲の被害にも遭いました。米軍が攻撃をしてきた際、私は飛行機を格納庫に収めているところでした。格納庫に入っていたため、運が良かったのか悪かったのか私は助かりました。しかし、二十人ほどいた同期のうち、何人かがこの空襲によって戦死してしまいました。
●終戦後広島に入市
終戦間際、私は第六三四海軍航空隊の隊員として、島根県の宍道湖畔にあった玉造基地に駐屯していました。その頃はもう乗る飛行機も兵舎も無く、私たちは何人かに分かれて、普通の民家に下宿しているような感じでした。八月十五日に終戦を迎え、私の所属していた航空隊も解散になりました。そのときにお世話になっていた民家の人たちが「広島が全滅した」と話していました。私は、玉造基地に残っていた他の隊員と一緒に八月十八日に玉造基地をたち、汽車に乗って広島を目指しました。その途中、私の親戚の家が高田郡本村(現在の安芸高田市)にあったため、私はそこへ立ち寄ることにし、他の隊員と別れました。汽車で高田郡吉田町(現在の安芸高田市)に着き、本村にある親戚の家まで歩いていきました。そして親戚の家に到着して一晩泊めてもらい、翌朝十九日、再び汽車に乗って広島駅へ向かいました。
広島駅に着き改札口を出ると、駅舎は全焼しており、天井も抜け落ちコンクリートだけが残ってボロボロになっていました。駅の近くには、仮に建てられたと思われる小屋が三つ四つあるだけで、周りはすべて焼け野原でした。宇品や、似島まで、広島市内すべてが見渡せたので本当に驚きました。
また、広島駅周辺にはけがをした人がたくさんいました。このような焼け野原になってしまった所で、皆よく生きていたと思いました。
●家族との再会
私は常葉橋、三篠橋を渡り、そして家族がいる楠木町の我が家へと向かいました。何もかも焼けてしまっているため、どこが楠木町かも分からず迷いながらようやくたどりつくと、家は全焼していました。爆心地から約二・五キロメートル離れた地点だったのですが、そこでも爆風で家が倒れてしまったのだと思います。
家の近くには防空壕があり、その防空壕から母が私を見付けて出てきました。そして涙を流しながら、私を大事そうに抱きしめて「ここにおったら危ないけぇ、おまえは親戚のいる本村に先に帰ったほうがええ。どうなるか分からんけぇね」と、言っていたのを思い出します。
八月六日のあのとき、父と母はいつものように八百屋の商売をしていたそうです。長女の綾子、次女の末子、三女の夏子は出勤準備をしていたとき、四女の富士子は学校に行くための準備をしていて、家族全員が家にいるときでした。建物の中にいたおかげなのか、家族は皆無事で、誰一人けがをしていませんでした。家が全壊したため、私が帰ってくるまでは半分崩れかかっている近くの防空壕で暮らしていたのです。
倒れた家の中をいろいろ探していると、法律で認められていない、どぶろくと呼ばれているお酒を家の下に隠していたのですが、そのお酒が入った瓶がまるでアメのようにぐちゃぐちゃに曲がりくねっていました。家の下に隠していたお酒の瓶さえも溶けてしまうくらい、火災による強烈な熱が襲ってきたのだと感じました。
●目撃した被爆の悲惨さ
家に帰ってから翌日に、様子を見るため、知人と広島市内へ向かいました。横川町や寺町付近を歩いていると、まだいくつもの死体が道に転がっていました。人間だけでなく、馬や犬、猫の死体もありました。また、死体の臭いや火事の焼けた臭いといった、異様な臭いが蔓延していて、手で鼻や口を覆い隠して歩いている人がたくさんいました。
川には、死体がたくさん流れていました。川に落ちてしまい、または熱さから逃れるために川に入り、そのまま亡くなった人がいたのだと思います。橋の両側にも馬や猫、人間と関係なく死体が並べられていました。私はそのとき見た光景を、今でも思い出すのです。
●その後の生活
家族と再会したのち、家があった場所に父がバラックを建て、そこで生活を始めました。そして八百屋の仕事も再開しました。当時、猫屋町付近には卸問屋がたくさん並んでおり、私の父がそこへ食料を仕入れに出向いていました。
私はしばらくの間は実家にいましたが、四男だった私は家から出て、自分でも商売をするようになりました。昭和三十年頃には豆腐屋を始め、その頃、今は亡き妻と出会い、結婚して、そして息子が生まれました。元々商売が好きだったということもあり、昭和五十年頃には、横川町に立ち食いうどん屋も開きました。現在はもう引退し、娘夫婦に後を継いでもらっています。高度成長の時期であったためか、商売も繁盛し、妻が会計面をカバーしてくれていたこともあり、戦後も特に苦労することなく生活ができました。
原爆投下後の広島市に入市して、被爆の惨状を目の当たりにしましたが、それからこれまで原爆症という症状も出ることなくずっと健康に生きてきました。息子に「被爆者健康手帳を申請したらどうか」と勧められ、手帳の申請をすることにしました。手帳の交付をしてもらうために、当時配属していた海軍航空隊の同期や、一緒に広島に帰った人、四人ほど証人を集め、必要書類をそろえるのに一年近くかかりましたが、昭和六十二年、無事手帳を交付していただきました。
私の実家は八百屋だったため、戦後も食べる物には困らず生活できました。栄養のあるものを十分に食べていたことも、これまで健康に生きることができた要因なのではと思います。もし戦後まともに食糧が手に入らず、満足に食事をとれていなかったら、私にも原爆症が襲いかかっていたのかもしれません。
●平和への思い
当時のことで、言いたいことはたくさんあります。しかしいざ言おうとすると、なかなか言葉が出てこないものです。
戦争とは本当に怖いものです。敵の攻撃から走って逃げるのが精一杯でした。皆、生活に困りながら生きていました。戦争は怖いものだということを話しても、戦争を体験したことのない若い人たちには、裕福な生活をしている人がたくさんいますから、うまく伝わらないと思います。そういう人たちに、原爆が落ちた瞬間のあの姿を見せて、戦争はしてはいけない、核を使ってはいけないということを私は言いたいです。今更言ってもしかたのないことかもしれませんが、こういう気持ちを残していなければいけないと、私は思うのです。
【高杉辰人さんの「高」の字は、正式には「はしごだか」です。】 |