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原爆 私の手記 
田川 俊夫(たがわ としお) 
性別 男性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1997年 
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 東洋工業(株)第4工場 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

はじめに

世界で初めて原子爆弾という、ききなれない爆弾が広島そして長崎に、アメリカ空軍によって投下された。

想像もつかないような強力な破壊力と殺傷力で、しかも広範囲に被害をもたらした。忘れもしない、昭和二十年八月六日、(八時十五分は後でわかったこと)この時点で私の運命は、いやこれを境に私の人生は大きく変わったと思う。

もしあの時勤労奉仕の動員のメンバーから外れていたら、私の人生はどのように変わったであろうか。朝元気で出たら夕方にも元気で帰るのが普通である。

だがこの日は朝元気で出勤したが、夕方は何と男性か女性かの区別がつかないほど原爆で焼けただれ、二目と見られないように変貌した姿で帰ろうとは、だれが想像したであろうか。一旦は会社まで帰ったが、のちに私の実家高田郡船佐村、現在の高宮町に帰り、火傷の治療をしたのである。両親や祖母の世話で治るまで約一年くらいかかった。そのあいだ、いろいろと苦労があったがこの時期に、私の手記にと思い、被爆状況の主な部分を書き残しておいた。

あれから五十年以上経つ現在、ときどきそれを出して読んでみるが、当時の悲惨な状況が恐ろしいまでに、よみがえってくる。私には未だに顔面の左半分と、あごにケロイドが残っており、裸になれば肩から胸にかけてもケロイドがある。

田舎での治療で、満足な手当もできず、火傷の薬も医院でもらう白い油薬であったと思う。親たちに苦労をかけるばかりで治りも遅く、寝ていることが多かった。また、治った火傷の跡が盛り上がり、色も赤紫に変色してきた。つまりケロイド状である。そのためにあごのあたりが引きつってきたのである。

現在私は六十七才になろうとしているが、若い時にはこのケロイドのために精神的な苦痛となり、人前はもちろんのこと、人と会うことさえ嫌になってきた。

本文で詳しく書いているが、当時の人は原子爆弾についての知識はなく、月日が経つにつれ、世界で初めての新型爆弾であったこと。そして放射能という目に見えない物質のための汚染、この放射能で広島、長崎は七十五年間は草木も生えないとのうわさであった。私の聞き知ったことは、直接にせよ間接にせよ、被爆したものは髪が抜けたり、三十八度から四十度近くまで熱が出たり、歯茎から出血するなどは、原爆症特有の症状だとのこと。私も髪こそ抜けなかったが、四十度近くまで熱が出たり、歯茎から出血することは度々あった。このことは頻繁ではないが二十才前後まで続き、年数が経つにつれ、体力も付いたのであろう、いつの間にかこの症状も消え失せていった。

被爆から五十年以上経つ現在でも、原爆の後遺症に苦しんでおられる人が多いのが現状。私も年老いていくなかで、いつどんな病状になるかわからない。原爆という悲惨なこと、いやこの、みじめなことが二度と繰り返されてはならないという願いをこめ、若いころ書いた記録にもとづき、ここに私の手記としてまとめた次第である。

原爆(私の手記)

当時、私は安芸郡府中町の東洋工業(いまのマツダ)に勤務をしているが、その時十五才であった。昭和二十年八月五日、社内の中でもたくさんの動員されるグループもあったが、私たちも例外なく、第四工場の一部だが四十五名が編成され、広島市内に勤労奉仕のために動員されたのである。これが私の運命を大きく変える分かれ道であった。

六日、この日は朝から汗ばむような暑さで、雲一つない空のもと、真夏の太陽がじりじりと照りつけていた。会社の大きな広場(軍隊式教練などに利用される運動場)か゜第四工場と寄宿舎の間にあったが、そこにそれぞれのグループが集合した。

久し振りに広島に出るということで、みんなはしゃいでいた。グループごとに点呼を取り、午前七時ごろ出発したが、徒歩のためか暑さが厳しく、大洲町のほうから汗だくであった。

当時のこと、食糧不足で食べるものが少ないので満腹ということはなく、いつも腹が空いているという感じであった。この日も弁当は相変わらず大豆飯で、水分でふくらんだ大豆ばかりが多く、米粒はあちらこちら、その弁当箱をだいじに抱え、大正橋を渡ってようやく段原町近くまで来た。空腹に我慢できず歩きながらその弁当を食べている者がいたのを覚えている。鶴見橋を渡って数百メートル行った所が目的地であった。

到着した時刻は八時頃ではなかったかと思う。既に動員された団体など大勢の人が作業の準備をしているところであった。警防団と書いた腕章をしている人や、国防婦人会と書いた布を肩だすきにしている婦人たち。学徒動員された女学生であろうか、国防色の制服の胸に名札がある。そして彼女たちは一様に防空頭巾を肩掛けにし、日の丸を間に必勝と書いた布を鉢巻きにしていた。

作業内容は建物疎開である。つまり密集している木造建築などの建物を壊し、爆撃されたときの火災や、それに対する被害を最小限にくい止める手段ではなかったかと思う。私たちは到着したばかりで、引率者が点呼をとっている時である。だれかが、
「あっ飛行雲だ」見ると真青の空に白い線が見え、その先端に細く光る物体がかすかに見えていた。その時、落下傘のようなものが割に速い速度で、すうっと降りてきた。
「あれはなんだ」と云っているうちに私の目の間近なところで稲光のような閃光に思わず両手で顔を覆った。と同時に腹に響くような爆発音がし、次の瞬間凄まじい勢いの爆風が襲ってきた。この爆風も強烈な熱風といってよいかもしれない。土埃とごみであたり一面真っ暗になった。吸い込めば喉の奥まで焼けるような熱い空気と舞い上がる砂まじりのごみで息が詰まりそうになった。咳をしながら転げるように何処をどう走ったか、物にぶつかりながら夢中で走った。

この焼けつくような熱風に私が着ていた上着が背中のほうから燃えだした。ボタンも何も引きちぎるようにして脱いだが、もう背中が焼けつくように熱い。無意識のうちに水のあるほうに走ったか、いつの間にか川のそばまで来ていた。

身体のいたるところがひりひりして熱く痛い。みんなざぶざぶと川に入っている。私も熱さに我慢できず川に飛び込んだ。顔や首のほうから腕、いや上半身全体がひりひりする。かぶるように水をかけた。手の甲や腕のほうを見ると、灰色に変色した皮膚が薄皮のようになって剥がれ、手の指先までめくれているではないか。
「あっこれはどうしたことか」顔や首筋、あごのあたりを手でさわってみると同じように薄皮が剥がれている。手首のほうは、めくれた皮がちぢれて土埃が付着し、その下が血でにじんでいた。まるで焼いた鉄板で叩かれた感じの痛み。だれを見ても同じように顔から首筋、あごにかけて薄皮が剥がれ、ぼろきれのように垂れ下がっている。直射日光でますます痛んできた。「ああ何とかしないと」再び水をかけたり首まで身体を沈めてみるが、冷えている間は痛みは薄らぐが、身体が温まるとまたひりひり痛みだす。
「いつまでもこうしてはいられない。なんとしても比治山まで逃げるんだ」と思い川土手まで上って見た。土手には大勢の人が倒れている。それが一様に焼けただれ、まともな衣服でいる者は一人もいない、ぼろ布がうごめいている感じの有様。
「助けて!助けて」と呼んでいる人を目の当りにしながら、みんな我れ先にと逃げ惑っている。私も逃げたい一心でどうすることも出来なかった。

ようやく来るとき渡った鶴見橋まで来たが、何処に吹き飛んだか橋の欄干の一部がなくなっている。かろうじて残っている橋桁の上を大勢の人が行ったり来たりしていた。

崩れた家のあちらこちらで火の手があがり、ぱちぱちと音を立てながら勢いよく燃えている。早く逃げなければと気が焦るばかりであった。

何んとしてもこの橋を渡らないと遠回りになる。が渡るにしても行き交う人でいっぱいである。崩れかけた橋でも比治山にはいちばん近いので、みんな無理をして渡っている。

なかには誤って川に落ちるもの。橋の中ほどで動かないもの。それは橋桁の横板が所どころが無くなっているからだ。私もおそるおそる渡ったが、横板のあちらこちらが跳ね上がり、川面が見える所もあった。渡るうちで、元気なものや、負傷程度の軽いものは、人を押し退けて渡り去っていく。私ももう少しで川に落ちそうになったことを覚えている。

やっと安全なところに来ると気がゆるんだか、道ばたに座り込んだまでは覚えているが、それから先は眠ったのであろう、よく覚えていない。それからどのくらい経ったのか、揺り起こされて気が付いた。まだぼうっとしていると、
「君、そこで眠ったらだめだぞ!」なにか声がしたような、呼ばれたような、頭ががんがんして辺りがよく見えない。
「君は何処に帰るの!みんなについて行きなさい。歩けるか」言いながら手をさしのべてくださった。やっと状況がのみこめるようにハッキリしてきた。おっそうだ私は爆弾でやられ怪我をしているんだ、そのために此処まで逃げてきたんだ。
「はい歩けます」
「この上が安全かもしれないよ!みんな登っているだろ。君も付いて行きなさい」
「はい、ありがとうございます」立たしてくださった方は兵隊さんのようで、詰め襟に階級章があった。しかし軍服はぼろぼろであった。同じ様に腕や手の甲は薄皮が剥れ血がにじんでいた。「頑張れよ」なにか忙しそうにその言葉を残し、立ち去って行かれた。

ふらつく足でやっとのこと比治山の広場のような所に着いたが、火傷の痛みと暑さのための疲労で、日陰を求めて歩く気力がない。辺りを見まわしても木陰という木陰は、どす黒い顔の人でいっぱい、またその場に座り込んだ。

喉の渇きと火傷の痛みにもかかわらず、気が遠くなるように眠気がおそってきた。うつらうつらするのか、人のうめき声や子供の泣き声が、遠くなったり近くなったりする。(ああ水が飲みたい、喉がからからだ)辺りがよく見えず、気が遠くなる。ここで死ぬるかもしれないぞ。ますます顔が腫れ、特に目の周りが腫れ上がっている。一緒に来た先輩同僚たちは何処に行ったのだろうか。どうにかして会社まで帰りたいが身体がだるく動けない。脱ぎ捨てた上着はともかく上半身裸同然で、ぼろぼろに焼け焦げたシャツが肩のほうに少し残っているだけであった。かぶっていた帽子もなく、頭に手をやってみると帽子より出ていた髪が焼け縮れて、きわがついていた。

―このままでは全く動けなくなる、よし立ち上がって歩くんだ―と自分に言い聞かせながら立ち上がった。が、足元がふらついて歩きづらい。でもみんなについて行かないと助からないと思い、意地を出して歩きかけた。ちょうどそこへ先輩によく似た人が通りかかった。すかさず
「三浦さんじゃないですか」彼は声のするほうを探している。もう一度、
「三浦さん此処よ」やっと目が合い、
「あんたはだれかいのう」
「田川ですが」
「あっ田川か、なんとまあ、ひどうやられてるのう。歩けるか」言いながら私の手を取り歩き出した。ああ助かった!と心に叫んだ。いや、この時ぐらい三浦さんが頼もしく、ありがたいと思ったことはなかった。彼は私より四つ年上で、寄宿舎では私たちの室長であり、よき先輩であった。お陰で何処をどう通って帰ろうかという心配もなく、彼について行けばよかった。三浦さんは首のところと腕、そして手首の辺が少し火傷で薄皮が剥れているくらいで、あまり怪我をしていないように見えた。
「三浦さんは何処におったんですぅ。あまりやられておらんが」
「わしかあ、わしはのう、いいあんばいに家の陰におってのう、でも家は吹きとんだぜ」
「それにしてもよかったですよ。怪我がすくのうて、わしらは落下傘じゃいうて空を見とった時じゃけえのう、やられましたよ」
「うん、そりゃええが早う帰ろうで」

今までは不安で不安で歩くにも、よろけるような状態であったが、会社に帰れるという安心感から、つい有頂天になり話しかける言葉も多くなった。だが目の廻りが大きく晴れて前がよく見えず、遅れがちになっている私をせき立てるように、
「話もええがもうちょっと早ようこいや」言いながら、離していた私の手をまた取り歩きだした。この帰るときの状況が、現在でも私の脳裏に強く残っている。彼に手を引張られながら同じ様に崩れた屋根のあいだや、場所によっては屋根の上を通った。建物の壊れ方が少し変わっていたように思った。もちろん吹きとんだ屋根もあったが、柱の方が先に折れ、殆どの家の屋根だけが地面にあった。

比治山にあった当時御便殿といっていたと思う。(べんという字が違うかもしれない)このお宮もそれで、柱が全部折れ、合掌造りの屋根だけが突っ込むような格好で同じ様に地面にあった。日陰にできる所は人でいっぱいで、その中も入りきれないほどの人であった。

大正橋付近まで来たが、暑さと火傷の痛みで歩くのがやっと、
「ちょっとここで休んで帰ろうや」耐えきれず三浦さんに声をかけると、
「おっ休もうか。まあ、ありょう見てみいや、よけい死んどるのう」橋のたもとに川に降る階段があったのか、そこに大勢の人が折り重なるように死んでいた。中にはかすかに動いている人もいたが、そのそばで少し休んだ。今思えば、あの悲惨な出来事に麻痺していたのか、さほど怖いとも気持ちが悪いとも思わなかったことを覚えている。

長く休むと疲れのためかすぐ眠気が来る。とにかく横になりたかった。
「おい帰ろうで。歩けるか」「うん大丈夫。歩ける」ふらつくように立ち上がり、あえぎながら彼について歩いた。その頃から何処を通ったかはっきりしない。ぼうっとしていたのか気がついてみると、会社近くの大洲橋付近まで帰っている。

当時この付近は今頃のように建築物が建て込んでおらず、点在するように、わらぶき屋根の家が多かった。このどの家の軒先にも水の入ったバケツと蓋の上に酌と湯飲み茶碗が置いてあった。通りかかる被害者に対し、水のほしい人は飲んでくださいという気持ではなかったかと思う。
「おい田川よ、水を飲ましてもらおうや」彼も喉がからからであったのか、バケツの所に走って行った。走るどころか彼について歩くのが精一杯の私は、その場にへなへなと座り込んだ。水もほしかったが身体が熱っぽくだるく横になりたかった。他の負傷者もバケツの所に走り寄っていた。
「おい飲んでみいや」と汲んできてくれた湯飲み茶碗の水のうまかったこと。
―ようし頑張れ会社はもうそこだ―。自分に言い聞かせながら彼について歩いた。それこそ、ようやく会社の医務室までたどり着いた。医務室の中は、傷ついた子供や火傷を負った人たちだった。市内から逃げてきたのであろう。私もそうであるが、治療に来ている殆どが幽霊のように手首を中間に上げ、手の指先をだらりとさげた格好で、立っている者、座っている者。手、指などから薄皮が垂れ下がり、ちょうど指先に焼いたわかめを付けているようである。
「会社の人はこちらにきてください」一般のと会社との区別をしているのか、帳簿を持った係員が呼んでいる。私たちもそこに行き所属と名前を言うと、
「まあ、ひどうやられとるのう、いま医務室が混雑しとるけえのう、この先の従業員の食堂を仮の治療室と待合室にしているから、そちらに行きんさい」係員は食堂のほうを指さしながら、
「なんとまあ、だれがだれやらわからんのう」何処の班であったかを説明し、案内された食堂に行った。中はごったかえすような混雑で、横になるどころか座る所もないくらいに負傷者で埋めつくされていた。負傷しただれもの顔が大きく腫れていて、一緒に行った同僚たちもこの中にいるのか、それさえ分からなかった。

女性であろう長い髪が焼け縮れて一束になっている。そして絞るようなうめき声と、子供の「痛いよ!痛いよ!」の叫び声。負傷者ばかり集まったこの状況は、今思い出すと、想像を絶するものであった。

三浦さんは比較的軽いということで、ほかの場所で治療するとのことであったが、私は係員の手助けで薄い布団のようなものに寝かせていただいた。しかし食堂の中は蒸しかえるような暑さと息苦しさ、寝ていても火傷の痛みと吐き気に悩まされ続けた。朝から何にも食べていないので、げいげいと吐くものは飲んだ水と黄色い液体ばかりであった。

女工員さんの一部が負傷者介護の応援に来ているのか、係員の中にも女性の姿が多く見られた。その一人が苦しそうにする私を、気の毒そうな顔で、背中を撫でたり、うちわで扇いだりしていただいた。

私の隣に寝ておられた方も、上半身頭の先まで火傷をされていた。その方が咳をしながら血を吐いておられた様子が、今もって頭から離れない。書いておいた記録を見るたびに思い出す。

あまりにも数多くの負傷者で医者の手が足りなかったのであろう、薬を付けていただいた方も看護婦さんか、それに近い人で、お医者ではなかったように思う。また当時は医薬品も不足していたのか、付けてもらった薬も大半が油で、それを傷口にかけるようにしてつけていただいたことを記憶している。(後で聞いたことだが、食用油で消炎剤が少し混ぜてあったとのこと)でもその薬はよく効いたと思う、時間が経つにつれ、痛みが薄らいできた。いままでの疲れでぐっすり眠っていたと思う。あたりが騒がしくななり目が覚めた。
―あっサイレンが鳴っている―まだ頭がはっきりしないうちに、「退避」という声に今度こそ我に返った。
―ああまたあの爆弾が落ちるかもしれない―とっさにそう思い、慌ててみんなが出ている方向について出た。見るとみんな食堂近くの防空壕に走り込んでいる。動くのがやっとの私もそれについて走った。自力で避難できるものはいいが、動けないで寝ていなければならない重傷者はどうであったろうか、けたたましくサイレンが鳴っても我慢していなければならなかった時の恐怖。私は痛いのも忘れて走ったのに。

五分くらい経った頃であろうか、かすかな爆音が防空壕の中まで聞こえてきた。みんな息を殺して聞いているが、その時の不気味さは何ともいえないものだった。

爆音の聞こえる時間は四、五分であったと思うが、いまにも地響きする爆発音が聞こえてきはしないか、此処が直撃弾でやられるのではと、不安にかられて、その時間の長かったこと。動けず寝ていなければならなかった重傷者は、さぞかし怖かったであろう、察して余りある。これが夕方の六時頃であったと思う。そのうち空襲警報解除の知らせで、
「やれやれまたやられるのかと思ったよ」みんながやがや言いながら防空壕から外に出た。私はもとの場所にもどって寝ていると、首や手に包帯を巻いた三浦さんがきて、
「わしは寄宿舎に帰るけえのう、田川は待っておれえのう。寮の者に迎えに来さすから」

彼は急ぐようにそれだけ言って出て行った。所せましと寝ていた負傷者も外が薄暗くなった頃には少なくなり、食堂の中もかなり空いてきた。しばらくしていると寮の先輩や同僚たちが、にわか作りの担架を持って迎えに来てくれた。

帰ってみれば寮でも食堂の一部を開放し、負傷者に充てていた。ここでは食堂の長椅子を突き合わせ、寝台のようにして敷布団が敷いてあり、私もその上に寝かせていただいた。

寮生の中からも多数の負傷者が出ていた。食堂だけでなく廊下にまで、まるで鰯を並べたように寝ていた。晩の食事にお粥と梅干しが出たが、唇とその周りが腫れ、痛くて食事はとれなかった。身体がだるく熱っぽくて、寝ているうちに全く動けなくなった。

何日目かはっきりしないが、待ちに待った母が実家から来てくれた。

火傷の状態がみな同じ様なのでわからなかったのか、母も私の寝ている場所まで係員に連れられてきた。
「あんたは俊ちゃんか?あんたはほんまに俊夫か」私を覗き込むようにして確かめている。
「お母さん、わしよ俊夫よ」
「なんとまあ酷いことを」と言ったきり、辺りを気にしながら声を殺して泣いている母。来てくれた安堵感と母恋しさ懐かしさから、
「お母さん」後はこみ上げてくる涙で言葉にならず、ただ、母の顔がにじんで見えるばかりであった。
 
梅干しの入った焼きむすびを少し持ってきてくれたが、私はもちろんのこと母も、周りの状況から食欲もないようであった。どこを向いても腫れて赤むげになっている負傷者と悲痛なうめき声。息も絶え絶えの苦しそうな人を目の当たりにした母は、この世の出来事であろうか、これはまさに生き地獄だと思ったそうである。

聞こえていたうめき声が静かになったと行ってみれば息を引き取っている。昨日はあそこ今日はここと毎日のように息を引き取る人がいて、今度はこの子ではと、気の休まる時がなかったと言っていた。母が来て四日目であったと思う、会社からの通達で、負傷者のなかで実家に帰ることができる人は帰ってもいいということであった。母は、
「俊ちゃん、あんたはどうするか、あんたがいいと言えば連れて帰るが」
「うん、わしも帰りたい」とは言ってみたが、私も重傷なので実家に帰るにはどうすればよいか。話によれば市内は全滅してまだくすぶり続けている所もある。また道路は崩れた家などで瓦礫の山になっているとのこと。母も来るときは、三次から芸備線で矢賀駅まで来て、其処から向洋の寄宿舎まで歩いたとのこと。
「お母さん、どうやって帰るの。動けないのに」
「それは心配せんでもええよ。どうにかして連れて帰るけえ。ちょっと相談に行ってくるけえ」

どうしても連れて帰るという表情で、あたふたと出ていった。

他の負傷者も家に帰ることについて相談しているのか、身内の人達であろう。何やらひそひそ声がしている。相談すると言って出ていった母がようやく帰ってきた。
「それでのう俊ちゃん、あんたの部屋の皆さんが、明日の朝あんたを担架に乗せて、矢賀駅まで送ってくださるそうだ」

被災に遇わなかった寮の人や、負傷者に関係する皆さんそれぞれが、手分けをして送る事になったと言っていた。
「暑いときで皆さんには大変な迷惑をかけるので申し訳ないと思うよ」連れて帰る方法については母もどうすればよいかと思案してか、ほっとした様子。

朝の涼しい内がよいということで六時頃起床して出発の準備をしてくださるとのこと。朝が早いから夜のうちにと、傷の手当てをしていただいたが、殆ど上半身に包帯を巻いてくださった。母は五時に起き、帰る準備と食事を済まし、皆さんのお世話になりながら六時半頃出発した。朝のうちとはいいながら暑くなっていくなかで、ご苦労であったと思う。
「すみませんのう。ご迷惑をかけます」母は何回も言っていた。矢賀駅に到着したのが八時頃であった。待合室には歩ける程度の負傷者と、私と同じように担架で運ばれる負傷者でごったがえしていた。ホームで待つようにとの指示で私たちもホームのほうに移動したが、ここでも乗車を待つ人でいっぱい。送ってきてくださった皆さんも乗車するまではと、言って待ってくださった。

この間に、またもけたたましくサイレンが鳴り出し空襲警報が発令になった。ほどなく退避というメガホンからの叫び声に、ホームにいた人たちは一斉に物陰や停車している貨物列車の下にもぐり込んだ。
「お母さんそこの貨車の下にはいりんさいや」
「担架に寝ているあんたを置いて逃げられるわけはないだろう」みんな、思い思いに逃げているのに母は担架に寄添うようにして動かなかった。気のせいか、爆音がかすから聞こえてきたように思ったが、十分くらいで空襲警報が解除になった。

ここで当時の様子をもう少し詳しく書いておきたいと思う。普通は先ず警戒警報が発令になり、その後に空襲警報が発令になるという順序であった。ところが戦争末期というか、原爆投下前後はいきなり空襲警報そして退避ということになった。もう悠長にはしておれない現状であったと思う。さて、それからしばらくして、警笛を鳴しながら汽車がホームに入ってきた。見ると貨物列車である。
「客車でないので、まだ当分待つようですよ」
「そうですのう」隣の人と母が話していると、駅員さんが、
「この貨車に担架ごと乗り込んでください。担架を持ち込むので押さないように」
二、三人の駅員さんが重い貨車の扉を開けながら注意している。今まで待っていただいた皆さんの手を借り、私の担架を乗せてもらったが、この暑いなかを大変なご苦労であったと思う。母は涙を流しながらお礼を言っていた。

矢賀駅から三次の十日市駅までの記憶はあまりはっきりしないが、貨車の中が蒸し暑く、たびたび水を飲みたいと言ったことを覚えている。

十日市駅から程遠くない所に小学校があり、それが臨時救護所となっていた。汽車から降された担架が次々とそこに担ぎ込まれた。例外なく私の担架もそこに担ぎ込まれたが、私には大変なことが待っていた。

顔からあご、そして肩から胸にかけて全て火傷をしているところに、ガーゼが覆ってあった。そしてその上から包帯でぐるぐる巻きにしてあったが、それがよくくっついている。とくに胸に覆ってあったガーゼは、血と膿でべったりとくっついていた。救護所の先生が、そのガーゼを一気に剥いだからたまらない。
「痛いよう先生もうしていらんよう!」と言って先生の手を振り払い、一段と大きな声で泣き叫んだ。先生は、
「これぐらいのことでわめき我慢できないようならほっとくぞ」怒鳴る先生の声も大きかった。いや、今考えると当時十五才の子供で、重傷であり肉体的に参っていたと思う。その時の痛かったことは今持って覚えている。先生にしてみれば、ガーゼをゆっくり剥ぐと痛みが長引くだろうという配慮であったと思う。しかし私の胸の辺りから血が吹き出るように流れだした。そばで治療を見ていた母が、いつの間にかいなくなっていた。実家から三次まで迎えに来てくれた父が
「我慢せえよ、治療してもろうてのう早よう、いのうで」処置をしていく先生の手先を見ながら私を慰めていた。

実家の近所の各家庭から一人づつ六、七人が父と一緒に来ていただいているとのこと。救護所での待ち時間が長く、治療が終って帰途についてのが午後の六時か七時頃であったと母が言っていた。実家まで約十二キロの道を、担架の担ぎを交代しながら帰っていただいたとのこと。重傷のわりには意外と意識がはっきりしていて、眠った時をのぞいて覚えている。

途中何回も交代の度に、雑談されながら休んでおられた。母は時々私に顔を近づけ、
「どうようなか」と声をかけながら息づかいをうかがっていた。

家に着いたのが八時か九時ごろではなかったかと思う。日がとっぷり暮れていた。玄関先まで迎えに出てきた祖母が、私の顔を見るなり、
「まあ!、ひどいことになっとるのう」後は声にならず目頭を押さえていた。上半身頭の先まで包帯を巻き、目と鼻と口が見えるだけの姿に、弟や妹たちは怖いものを見るような異様な感じで見ていた。

化膿と蛆虫との戦い

これから約一年近く、火傷のための化膿と傷口に蝿が産みつける、卵からなる蛆と闘う生活が始まった。

膿の独特のあのいやな臭いが、私の寝ている部屋中に立ちこめ、弟や妹たちだれも寄ってこなくなった。私の世話をしてくれるのは、祖母と両親だけ。毎日のように夕方になると熱が四十度近くまで上がり、時には意識がもうろうとすることもあった。

こんな時には母か、母がいないときは祖母が水枕と濡れタオルで冷やしてくれた。ただ、冷やすといっても直接水枕や濡れタオルで冷やすわけにはいかない、火傷のために赤身が出ているからだ。今までのように傷口にガーゼを覆ってしまうと今度それを取るとき、大変な苦労と痛みが伴い、とても我慢できるものではない。またガーゼなど覆っていたものをとるたびに傷口が生身になるということである。そこでお医者でもらう油紙に油薬を塗って濡れタオルなどを置くといった手間がいる。が、私にとっては非常に楽である。しかしこれも毎日の繰り返しであった。

私の部屋には蚊帳が吊ってあるが、いつも蝿が二、三匹入っている。こいつが傷に卵を産みつけ蛆を寄生さすのであるが、むず痒く痛いときは必ずといっていいほど蛆がいる。

傷が膿でかたまってできる(かさぶた)と赤身の間に、もぐるようにして一か所に四、五匹の蛆がいるそうだ。その蛆を取ってくれるのが母で、毎日のこと慣れるもので竹箸の先を細く削り、これで取るのだが、先ずかさぶたを剥がすことから始める。何層にも固まってできるかさぶたは、痛くてそう簡単にはとれない。煮沸した冷まし湯を充分ガーゼに浸し、傷口を洗うようにしてかさぶたをふやかしていく。そしてゆっくりと剥がすのだが、このようにしても剥がすときは痛くてたまらない。だが、それよりも蛆が赤身に食い込むときの痛痒さには耐えられなかった。

かさぶたを剥がし蛆を取ってくれるまでの時間はかかるが、むず痒さから開放される上に、傷口に冷たいひんやりとした風が当たるときは、何ともいえない気持ちのよいものであった。

来る日も来る日も同じことの繰り返しで、根気よく治療してくれた祖母や両親に申し訳なく、大変な苦労であったと思う。この事が一年近くも続き、月日が経つにつれ火傷は癒えてきたが、それにも増して癒えたところが赤紫に変色してきたのである。そしてそこが盛り上がってきた。

火傷の程度が深いところほど癒えたときの盛り上がりが著しい。今でいうケロイド状である。特に首からあごにかけて盛り上がり、そこが引きつったために唇がゆがみ、左顔面も歪んで見えるようにさえなってきた。

この事が私を精神的苦痛に追い込み、十六才、十七才と年が経つにつれ、ますます精神的苦痛が激しくなっていった。人前に出るのが恥ずかしく、何んといっても子供たちがいる所が一ばんきらいであった。子供たちはおかまいなく、左顔面を見えない方向にするとそれについて回り、自分も口をゆがめながらまじまじと見つめている。

正常な人の姿を見るとうらやましく、この引きつり部分が衣服で見えない所ならいくらあってもいい、せめて顔やあごに無ければよいのにと思い悩んだ。いっそ死んでしまいたいと思ったことは度々あった。しかし祖母や両親が必死の思いで看病してくれたお陰で、ここまで元気になった私である。こんなくだらないことを考えては、祖母や両親に申し訳ないと思いながらも、考えれば考えるほど前途は暗かった。

この悩み苦しむ生活がいつまで続くのか、自分ながら情けないと思う。田んぼや畑の仕事に出てもすぐに疲れる。
「なにをやらしてもしわがるのう、やっぱりピカドンにやられているけんかのう」軽い仕事をさせてもすぐ疲れる私に、母はそう言って嘆いていた。このような意気地のない生活が十八才の夏まで続いた。

ケロイドの手術

ある日のこと、仕事から帰った父がいきなり私に、
「あごの引きつっているところを手術してみるか」とっさにそんなことを言われてもと、戸惑いながら、
「何処の医者に手術をしてもらうの」
「足利の先生よ」今までも原爆の火傷の治療は足利先生にお世話になっていたが、確かに外科が専門で上手とは聞いていた。が、手術をしてもらおうとは思ってもみなかった。
「とにかく明日相談に行ってみい、どう言われるか」

いろいろな手術も手掛けられ、盲腸の手術などは、いとも簡単にやってのけられると聞いている。毎日この引きつっているあごのケロイドがなくなればと悩み苦しんでいるときで、藁をもつかみたい思いである。しかし果たしてきれいに治るだろうか。

不安と期待を交錯しながら足利医院に行った。農村の医院でも評判がよく、この日も朝早いうちから四、五人の患者さんが待っていた。

先生は私のあごや首のあたりを引っ張ったり押したりしながら、
「ここをこう切ってこのケロイドを取ればええかの」目の位置を離したり近づけたりして手術の検討をしておられるようであった。
「よし、手術をしてみよう。しかしケロイドが深いからきれいに取るというわけにはいかないと思う。あごの所がいちばん引きつっているので、このケロイドを取ってみて次を考えよう」言いながら顔を真っ直ぐに向かせ、両手で耳の下側を持ち上げ、
「ぐっと上を向いてくれないか、やっぱりここが引きつりのもとだな、よしわかった」

先生はあごのケロイドをつまみながら、そばに立っている母に、
「お母さんここがいちばん引きつっているでしょう。まずこのケロイドを取ってみてどの程度引きつりが治るかですが、まあやってみましょう」
「どうぞよろしゅうお願いします」先生や看護婦さんの都合もあって四日後であったと思う。手術の日を決めてその日は帰った。

火傷の痛みからやっと解放されて、また手術で痛い思いをしなければという不安もあったが、それよりも少しでも良くなればという期待のほうが大きかった。

もんもんとしながら四日が過ぎ、いよいよ当日がやって来た。何となく不安が横切り、朝飯もそこそこに母と一緒に出かけた。医院に着いてみれば、いつもの看護婦さんと見慣れない看護婦さんが一人増えていた。田舎の医院で、今日一日は私の手術のためにあけてあるようで、他の患者さんは見えていなかった。

十分くらい待ったであろうか。母と一緒に入るよう呼ばれた。母は先生の説明を受け、私は看護婦の手招きで手術室のほうへ行った。

いろんな器具が並べられ、そのそばに煮沸する缶があり、その中にも器具が煮えていた。医務室特有の消毒薬のにおいと、手術台は私の胸の高鳴りをさらに高まらせた。
「上半身全部脱いでこれを着てください」簡単な前で結ぶような白い上着であった。看護婦さんも機械的に動き、顔、あご、首あたりの髭を剃り、熱めの湯で湿らしたタオルで拭いていく。

その間に先生は手の消毒をしながらもう一人の看護婦さんにいろいろ指示をされていた。
―いよいよ手術が始まるぞ―私の身体がこきざみに震えだした。それを見透かしたのか腕から手にかけて石鹸の泡だらけの先生が近より、
「田川君心配せんでもいいよ、気持を楽に、肩の力を抜いて深呼吸をしなさい」

私に大きな息をさせながら、
「最初の注射が痛いだけですぐ痛くなくなるよ」手術台の上で寝て、目をつむったり開けたりいまかいまかとぴりぴりしている横で、たわしでごしごしこする音と先生の声であった。近づいてくる先生の顔を見る勇気もなく目をつむっていると、耳元でがちゃがちゃと金属音がしたと当時にひやっとした冷たい感じがあごにきた。瞬間に身体が硬くなった。
「いま消毒をしているからね、楽にして」鼻につうんとくる刺激臭と、あごのあたりに冷たさが伝わってきた。
「よっしゃ消毒はすんだぞ。麻酔薬を打つからの、初め痛いかもしれないが少しの間辛抱しなさいよ」

確かに最初に入る薬液と注射針の刺しかえは痛かった。

特に唇の辺は神経が敏感なのか液の入るときの痛いこと。痛みに続いて痺れていく気持ちの悪さ、そして時間が経つにつれ、局部が完全に痺れていった。
「この辺は痛くないか」注射針を次々と刺し、調べていったが何処も痛く感じない。
「痛くありません」「よし!始めよう」先生の手が押したり引いたりのなかで、メスが入るのであろう。かすかなぎしぎしと音がきこえてくる。上半身の下にはかっぱが敷いてあるが、時々血が流れるのか首から背中にかけて生ぬるいものを感じる。

手術の時間は、一時間半くらいであったと思うが、終わりごろには局部麻酔が薄れていくのか痛みの感じかたが強くなってきた。
「よし!取れたぞ。処々縫合して終わりだ」

母はそばにいて手術に立ち会うはずであったが、気持ちが悪くなったのであろう、いつの間にか居なくなっていた。無事に手術は終わり、後の処置をしてもらっていると、外から母が手術室に入りながら、
「まあまあどうもすみませんでした。ありがとうございました」
「お母さん見てみんさいよ、引きつりがなくなったでしょう。まだこの辺に引きつりがあるが徐々に治さないと、いっぺんには治りませんよ」
「あまり目立たないようになりましたのう。ありがとうございました」
「お母さんこれですよ」先生は切り取ったケロイドをピンセットでつまみ上げ、母に見せておられた。
「まあ!これですかいのう」一旦人間の身から離れた肉片は、ことさら異物に見え、母は身震いしながら
「まあ気持ちが悪いもんですのう、これが俊夫のあごについておったと思やあ」

厚さ五ミリ、幅十二、三ミリ、長さ六十ミリのケロイドであったと先生は言っておられたが、取ってみれば一塊の肉片でも私にとってはこれが災いの種であった。

この手術も昭和二十三年の九月のことで、寒さに向かっていくので化膿することも少なく、治癒も早かった。ところが治るにしたがい手術跡が、前ほどではないが同じようにケロイド状になり、少しばかり盛り上がってきた。それに伴って引きつりも生じてきた。先生は、
「火傷のために左顔面のそこだけでなく、全体的に縮んでいる。つまり皮膚に弾力性がなくなっているので、首を振ったとき伸び縮みが出来ないのである。手術前に言ったように、時間をかけて治さないといけないと思う」

当時のことで、手術の方法はケロイドを取ったあとに、新しく身が盛り皮膚ができるのを待つというやりかたで、完全に癒えるまで一ヶ月以上かかった。

先生のお陰で手術前よりはるかに首回りが楽になった。かといってもう一度手術ということにはちゅうちょした。何故ならば、きれいになりたいという願望のなかでの期待外れが私の心を鈍らせた。

就職と再手術

隣村の人で、広島に工場を持っている人の親戚にあたる、父と友達でもある方が来られ、
「今、人手が足らん言うてきとるんじゃがどうだろう、俊ちゃんに広島に出て働いて貰うわけにはいかんだろうか」いろりばたで父と一緒に藁仕事をしているときであった。私はその場を離れようとした。
「俊よ、何処へ行くんか。ちょっと聞いてみたのがええんじゃあないか」
「うぅんお父さん、わしは出て働く自信がないよ、こんな顔じゃあ」
「そりゃあ俊の気持ちはわかるがのう、将来どうするつもりか」父は私の先々の事についていろいろ心配してくれる気持ちはわかるが・・・・・
「どうしてええかわからん」
「そんなことでへこたれちゃあつまらんで。男だろうが、出て働いてみい。何とかなるもんよ。広島に出てみい、あんただけじゃあないんで、原爆にやられとるなあ」
「そりゃあわかるよ」
「まあ、よう考えてみることじゃのう。今から先どうすりゃあええか」親子のやりとりの会話になんの口も挟まず、帰りぎわにおじさんが、
「俊ちゃん、まあよう考えての」それだけ言って、じゃまた来ますと父に言って帰られた。

ああでもない、こうでもないと言って結局両親に説得され、広島に出て働くことになった。

十八才という年齢は異性を意識する最も多感な年頃である。引きつったケロイドの顔を、人に見られることに耐えられるだろうか。両親にあれこれと言いがかりを付け、出て行く日をずるずると延ばしていたが、昭和二十四年三月のなかば、もう春だというのに家の陰にはかなりの雪が残っていた。私の出る日も、冷え込むのか肌寒さを感じながら、頼みに来られたおじさんとやっと広島に出た。

案ずるより生むが安しのとおり、意外とやってみれば何でもないことが多かった。特に心配であったことは、人前に出ることであったが、これも思ったほど私をじろじろ見る人はいなかった。たしかに、父が言っていたように、市内では顔にケロイドのある人を見かけるのは稀だが、身体に大なり小なりケロイドのある人は多かった。何故ならば、私は身体の調子がよくないので、病院に行くことが多く、其処でよく見かけた。

当時、どこの医院病院に行っても被爆された患者さんが多く、子供から若い人たちそして若い人の中にも異常に頭の髪の薄い方をよく見かけた。

広島に出て感じたことは、戦時中も食料が不足していたが、戦後も依然として食料不足には変りはなかった。取り分け、廃墟と化した広島市内は、食料に至っては著しく不足していた。でも市内に住んでいる人は、たくましく生きている。バラック建ての家の周りに芋類からカボチャ、そして野菜なんでも植えていた。もちろん私の住んでいる借家もバラック建てで、その周りの空地には所狭しと野菜が植えてある。時々食料の配給もあったが、それだけでは足りず、みんなに誘われて食料の買い出しに行ったものである。

田舎から出たとき勤めていた会社も、世相の変動には敏感で、不景気風に耐えられなかっのか、昭和二十七年の初めにやむなく倒産に追い込まれた。当然私もそこの会社を辞めざるをえなかったが、知人のお世話でこの年の八月、次の職場が見つかった。

新しい勤め先でも皆さんが親切にしてくださり、其処の上司の強い勧めもあって、もう一度ケロイドの手術をすることになった。

しかし私には以前の手術の経験から、果してきれいに治るだろうかという疑問があったので、この事については迷っていた。だが勤め先の皆さんや上司の強い勧めとはげましから、昭和二十九年九月の下旬、市内広瀬町の原田外科病院に、ケロイド手術の相談に行った。

院長の原田東岷先生が診てくださり、念入りの診察の結果、
「この引きつっているケロイドを切除して、できれば皮膚の移植をしたほうがよいと思う。それで入院一ヶ月は必要です。会社とも相談の上決めてください。」

先生の皮膚の移植についての説明のなかで、原爆のケロイド手術のために入院されている患者さんが二、三人おられるとのこと。そして原爆の被爆治療については、調査、研究にご健闘なさっているよう伺えた。

勤めの関係から十月一日入院した。ここの入院患者は原爆に何らかの関係のある人が多く、私が入る病室でも被爆の患者で、ケロイドのある方が四人おられた。血液検査などいろいろな検査で一日かかった。

さすが病院だなと思った。一日の外来患者も多く、看護婦さんの数も多かった。

検査後、二日目であったと思う、看護婦さんが
「田川さん手術は明日の午後よ」いよいよきたか。内臓外科並に整形外科だからか、簡単な手術なら毎日あるとのこと。たしかにそうかもしれない。あの当時でも救急車はあったかどうか知らないが、毎日のように緊急で来院される人は多かった。したがって緊急の手術があるため、急を要しない入院患者は手術の予定が遅れると看護婦が言っていた。

さて、いよいよ手術の当日がやってきた。
「田川さん、緊急がなければ午後から手術よ。体調を整えておいてくださいよ」自分の手術のばんが近づくにしたがい、なんとなく落ち着きがなくなってきた。昼になって食事がきたが何か不安で食欲がない。
「どうしたの、食べておかないと手術の後は麻酔のため食べれないよ」看護婦さんはそう言ってくれたが、食べる気になれず病室で待っていると、
「田川さん全部脱ぎパンツだけでこれに着替えて手術室のほうに来てください」言われた通りに着替えたが、肌寒さと緊張感で、身体が小刻みに震えている。手術室に行ってみると、二、三人の看護婦さんが、雑談をしながらがちゃがちゃと手術の準備をしていた。
「田川さんここに上がって横になってください。顔の髭を剃るよ」もう既に手術台の上にはかっぱが敷いてあり、低めの枕がその下にあった。横になってみると、かっぱの冷たさと手術台は何回上がっても気持ちのよいものではない。

院長先生ともう一人の先生が近より、
「さあ気持を楽にして消毒をするよ、ううんここがよく引きつっとるなあ」二人の先生が会話のように、
「このあいだの患者さんもケロイドが深かったが、この方もケロイドが深いね」言いながら消毒を済まし、
「ちょっと痛いが初めだけだから我慢よ」やっぱり前の手術の時と同じように、唇の辺に麻酔薬が入るときの痛いこと。唇、あごの辺が腫れっぽく感じ、しびれていった。

先生の押したり引いたりのなかで、ぎしぎしとケロイドを切る音が、肌を通して耳に伝わってきた。これが二、三十分間続いたころ、
「よし、取れた。足を出して!看護婦さんここの髭を剃って!」

足を広げさせ、右大腿部の内側の髭を剃りだした。足の付根から膝まで全部剃った。消毒されるときの冷たさは寒気がするほどであった。それから間もなく注射からの局部麻酔薬の痛みが走った。移植のための皮膚である。これもあまり時間がかからず取れたが、これをすぐかぶせるのではなく、取った皮膚の内面を機械でぎざぎざにしてそれをケロイドを取った跡の傷にかぶせられた。

二人の先生で行われたので手術の時間も短く、何よりも力強く感じられた。
「皮膚が移動すると付かないから首を固定するからね、首だけ動かさないよう気を付けてくださいよ」移植した皮膚の上に、やや固いもので押さえ、ぐるぐる巻きの包帯で首を固定された。以前の手術のように生身が出ていないので痛みは少なかった。

お蔭さまで傷も順調に治り、一ヶ月半で退院の運びになった。原田先生の言われるには、ひにちが経つにしたがってまた引きつってくると思う。それは左顔面の皮膚が縮んでいるので、何回もの手術によって徐々にここの皮膚を、延ばしてやることです。火傷の皮膚の移植については、まだまだ研究の余地があると思う。と、おっしゃられていた。

この手術を受けたときの年齢は二十四才で、精神的な、いや異性に対しての悩みや、結婚についても無関心ではいられない年頃でもあった。決してきれいになろうとは思っていない。ほんの少し、ほんのちょっとでいいから火傷をする前の顔に戻りたい。この思いをいつも持っていた。お蔭さまで縁あって結婚して三十九年目になる。この間に妻には貧乏もさし、随分苦労もかけた。申し訳なく思っている。妻も八才のとき原爆投下三日目に父を探しに、母と市内は段原町付近に行ったと言っていた。

私たち二人は被爆しているため、子供が生まれるたびに、どうか元気な子であって欲しいと願った。お蔭で三人とも元気で育ったが、三人目の子を生むとき、病院の先生が、この子までにしておきなさいよ、又子供を生むようなことがあると、母子供に危険だと言われた。理由を聞くと、被爆の影響で出産時に出血が止まらないということが有り得るとのことであった。被爆者であるがゆえに、子供の成長過程においても、余分に気を使ったものである。素人でもわかる風邪の熱ならばさほど心配しないが、例えば、何も悪いものを食べさせた覚えがないのに(ほろせ)湿疹が出たり、また、元気で遊んでいるときに突然食べたものを吐いたりしたとき。

子供を育てる、ごく一般的な出来事でも、私たちには心配の種であった。

現在子供たちはそれぞれ片付き、順送りの子育てをしているが、今からのどんな逆境にもめげず頑張って欲しいものである。原爆のような悲惨なことが、二度と繰り返されてはならない。私も年老いていく身で、元気なうちにと思い若い頃書いた記録に基づき、書き残しておきたかった。
 

 

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