私は八月六日早朝から南竹屋町々内会の建物疎開の勤労奉仕に出ておりました。ピカ、ドンで建物の下敷きになり身動きできませんでした。ダメかも知れないとお念仏を唱えていたところ一瞬背中が軽くなり、助かったと思いました。が腰まで壁土で埋まり足が抜けませんでした。もがいているところを一緒に勤労奉仕をしていた近所の人が手を引っ張ってくれて、ようやく外に這い出ることができました。すぐに、近くで遊んでいた長男(数え七才)と四女(数え五才)を探しました。向うの方から「おかあちゃん」と言って二人の子供が駆け寄ってきました。二人ともボロ布を下げたような姿でしたが、それは全身ヤケドのため皮膚が焼けてめくれたものでした。
長男孝を私が背負い四女恵子を一緒に勤労奉仕をしていた方に背負ってもらい、救護所のあるといわれた御幸橋の袂に行きました。油のようなものを塗ってもらっただけで、施す術もなく、又町内に戻り、近所の方々が集っておられた防空壕に連れて行き、そこに子供達を寝かせました。くすりもなく何もしてやることができませんでした。子供は水を欲しがりましたが、誰ともなく水を飲ませてはヤケドに良くないと言われ、あんなに欲しがったのに飲ませてやりませんでした。今にして思えば何故あのとき、欲しがるだけ飲ませてやらなかったかと、悔やまれてなりません。
二人の子供は水水と言っておりましたが静かになったと思ったら四女、長男と相次いで息をひき取りました。時間はよく判りませんでしたが、六日の夜遅くだったのではないでしょうか。
私には五人子供があり、上二人は学童疎開をしておりました。三女信子は当時千田国民学校二年生でした。三年生以上は疎開しておりましたので、一、二年生は、学校が開いていた近くのお寺の分教場で勉強をしておりました。人伝てに、お寺の子供は牛田の山に全員逃げているとのことで探しに行きました。そこでうちの子供だけ本堂の柱に挟まれて、泣いていたことを教えられました。焼けたお寺で私が縫ってやった服の切れ端しとホックを見付け、三女を確認し骨を拾いました。
一度に三人の子供を失い、我家の焼け跡に立った、あの日のことは五〇年経った今も、私にとっては昨日のことのように思えます。
そして、あの時、飲ませてやれなかったお水を毎日仏壇に供え冥福を祈っております。
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