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後世に伝えたい思い 
谷生 トモエ(たにお ともえ) 
性別 女性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校(広島市千田町二丁目[現:広島市中区千田町二丁目]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
当時、私は広島県安芸郡船越町(現在の広島市安芸区)に、両親と兄と私の4人で住んでいました。兄は3人いたのですが、長兄は戦争で、次兄は肺結核ですでに亡くなっていました。今なら次兄も栄養のある物を食べ、病気を治せたかもしれませんが、戦時中は食糧も不足していました。私も栄養失調で髪の毛が抜けてしまい、少なくなってしまった髪の毛を結んで、学校に通っていた時期もありました。朝はおかゆで、昼は麦や大豆入りのご飯を弁当に詰めて持って行っていました。今のような白米など食べられる時代ではありませんでした。

そのころ私は、広島女子高等師範学校附属山中高等女学校の学生でした。昭和20年の春に卒業はしていましたが、そのまま籍を残し、学校に行っていました。戦時中ということもあり、卒業証書はもらっていません。

学校は広島市千田町二丁目にあり、近くには県立広島工業学校や広島工業専門学校など、多くの学校が集まっていました。私の家から学校まで遠かったので、朝早くに家を出て、列車と電車を使って通学していました。私が入学したころはまだ通常通り授業がありましたが、学年が上がるにつれ徐々に学徒として動員もかかるようになってきました。

●8月6日
私は軍の通信業務に従事することになっていたので、その日は学校で教練を受ける予定でした。いつものように朝早く家を出て、学校に向かいました。学校に着き、運動場で朝礼を済ませ、同級生たちと一緒に教室に戻って待機していました。私たちがいた教室は、学校の北側にある建物の2階の部屋でした。教室には前と後ろに大きな黒板があり、私は後ろの方にいました。

教室でしばらく待っていると、突如、「ピカッ」とものすごい閃光に教室が包まれ、「あっ」と思った瞬間、私は意識を失ってしまいました。気がつくと私は大きな黒板の下敷きとなっていました。なんとかして自力で這い出ようと必死にもがきましたが、黒板は重たく、まったく身動きできません。

かなりの時間が経ったように思います。軍人さんたちが救援にやって来たので、すぐに声をかけ、黒板を持ち上げてもらい、なんとか出ることができました。首に軽い傷を負っただけで、他は大丈夫そうでした。

教室を出て、運動場に行ってみると、敷地内にある寄宿舎がさかんに燃えていました。運動場にはけがをした生徒や先生、中には倒れている人の姿もありました。タオルで顔を覆っていた同級生がいたので、「どうしたの?」と近寄ってみると、ガラス片で切ったのか、顔中血だらけになっており、びっくりしました。彼女は窓の近くにいたそうです。同じ教室内にいても、けがの度合いが大きく違っていました。私の場合、あの大きな黒板が熱線やガラスから守ってくれたのだと思います。

運動場を横切り学校を出て、近くの南大橋に行ってみると、隣接した県立広島工業学校の生徒なのでしょう、顔のはれ上がった人たちが逃げていました。その中に、体じゅう焼けただれた少年がいました。水がほしかったのでしょうか、川に向かって下りて行きます。顔はひどくはれ上がり、身につけていた服もベルト以外はすべて焼け、とても可哀想でした。

川岸も負傷者でいっぱいでした。負傷者の中に勤労動員作業に出ていた下級生の姿もありました。私はあまりけがをしていなかったため、体育の先生に重症の彼女を手当に連れて行くよう頼まれました。彼女の顔はパンパンにはれ上がり、見る影もありません。私は彼女を背負い、手当してもらえる場所を求め、歩き始めました。彼女は何度も「ごめんね、ありがとう、ごめんね」と言っていましたが、途中、気分が悪くなったのか、私の左肩に嘔吐してしまいました。しかし、その時はそんなことを気にする状況ではなく、そのまま歩き続けました。

御幸橋まで来たところ、ちょうど負傷者を運ぶトラックがいたので、彼女を乗せることにしました。その後、彼女がどうなったか分かりませんが、たぶん似島にある検疫所に連れて行かれたのだと思います。今思えば、名前や住所だけでも聞いてあげていればよかったなと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

彼女と別れた後、私はとにかく家に帰ろうと思いました。帰る方向が同じ同級生がいたので、一緒に帰ろうと思い、宇品町の陸軍共済病院(今の広島県立病院がある場所)へ捜しに行きました。病院には、重度のやけどのため、少し触っただけで皮膚がずるりとはがれ落ちそうな人たちがたくさんいました。しかし、その中に同級生の姿はなく、日も暮れつつあったので、仕方なく1人で家に帰ることにしました。

いつもは電車と列車に乗って学校に行っていましたが、電車はもとよりすべて交通手段はまひしていたので、歩いて帰るしかありません。普段は定期券を使って電車に乗っていましたが、何度か定期券が発行されなかった時に歩いたことがある比治山の下を抜け、火災やがれきの山を避けながらトボトボと歩いて帰りました。1人で心細いというより、ただ早く帰りたいという一心だけでした。途中、何度かトラックが横切りましたが、乗せてくれるはずもありません。何時間歩いたのか分かりませんが、家に着いたころにはもう日も沈んでいました。


家では両親が、私の帰りを心配そうに待っていました。広島市内で何か大変なことが起こったことは分かっていたそうですが、市内に向かう交通も遮断され、どうすることもできなかったそうです。ただ、私が列車に乗って帰って来ると思い、家の近くにある遮断機ばかり見ていたそうです。私が無事帰って来て、本当に安心していました。家の方の被害は、爆風の影響でたんすが倒れたぐらいでした。

●被爆後の生活
帰って来てからは、しばらくは静かに療養しようと思い、親戚の家にいました。下級生の吐瀉物がかかった肩に、その後大きなおできができたため、通院していましたが、治療してもらい治りました。

学校は特に連絡がなかったので、あの日から行っていません。私が当日捜していた同級生も、なんとか帰ることができていました。私の身内に被爆した人はいませんが、近所の方で亡くなった方もいました。

被爆者健康手帳は昭和35年に取得しました。当時は本当に大変でしたが、取得して50年たった今でも大切に持っています。

●平和への思い
あの被爆から65年という長い歳月が経ったことを改めて感じています。顔にけがを負った同級生も、今は結婚して幸せにしています。しかし、同級生全員が助かった訳ではなく、何人かは原爆の犠牲となりました。原爆にあい、それぞれが色々つらい経験もしてきましたが、皆何も言わず一生懸命生きてきました。被爆体験を語ることについては、被爆者それぞれに複雑な思いがあると思います。私自身もこれまで、詳しいことは、娘たちにさえ語ったことはありません。

しかし、近距離で被爆しながらも、こうして長い年月を無事に健康に生きているのは、残されたものとして何かしなければならないという使命を負っているのかもしれないと考えるようになりました。

病気や年のため、記憶が薄れている部分もありますが、現在お世話になっている、心から信頼できる福祉施設の方(江島良平氏)に寄り添っていただけているこの場で、やっと自分の体験を後世に伝えることができてよかったと思っています。

 

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