原子爆弾の体験
昭和二十年八月六日、私は雑魚場町(広島市役所裏)の建物疎開作業に職域義勇隊の一員として参加し、原子爆弾の洗礼を受けた。
当日は職場から十七名の者が雑魚場町の豊田という家に集合し、その付近の疎開作業をすることになっていた。まだ全員が揃わずその家の縁側で待機していた。
八時十五分、運命の原子爆弾第一号が投下された。原子爆弾のことを「ピカドン」とは良く言い表した言葉で、最初にピカッと写真のフラッシュをごく近距離で浴びたような猛烈な光線が走り、座っていた黒塗りの縁側の板がまっ白に見えたのを覚えている。そして二秒位して今度はドーンと大きな爆発音と共に家屋が倒れた。その瞬間、塵埃で真っ暗になり何も見えない。目をやられたのか真っ暗で何がどうなったのか全く判らない。十秒位して夜明けの如くぼんやりと視界が開けてきた。爆風で座っていた場所から数メートル飛ばされて腰に打撲傷を受けたが外傷はない。目もやられていない。周囲を見れば見渡すかぎり木造の家は倒れている。市役所は窓は吹き飛ばされているが建物は残っている。
普通の爆弾一発ではせいぜい数軒が破壊される程度なのに、この被害はどうしたことか。とてつもない超大型爆弾が投下されたものと思った。待機していた家も完全に倒れ、その家の壁の下から黒川さんのうめき声がする。こまいを組んだ厚い大壁でこれを突き破るのに相当の時間が掛かったが、どうにか掘り出して助けることが出来た。そのほかの職場の人は多少負傷はしているが、全員どうにか歩けるようだ。近くで火の手が上がった。早くここから逃げないと危険な状態となり、各自それぞれ個人行動でその場所から離れていった。家族のある人は自分の家に走った。私は独身であり、直ちに職場に帰ることにした。あちら、こちらから火の手が上がってきた。二次火災ではなく熱光線により直接火災が発生したようだ。
集合した場所からまず市役所前の電車通りに出ようと思い、倒れた家の間を通って出かけたところ、倒れた家から出られなくなって助けを求める娘さんがあり、助けようと思えども大きな梁があってどうにもならない。どこか隙間を見つけて逃げなさいと言って、心ならずもその場を立ち去った。その娘さんはどこか突き破って無事逃げたかどうか今でも気になっている。
雑魚場町にどれ位の時間いたかは判らないが、近くからも火の手があがり早く逃げないと危ないという声があり、市役所前まででた。公会堂前の池や電車通りに大勢の負傷者が助けを求めている。火傷で顔や手の皮がむけてぶら下がっている者。負傷して血まみれになっている者、着ているものもボロボロで男女の区別も出来ない。もう逃げる力もなく道端にうずくまり「兵隊さん助けてください」と哀願している。歩ける者はもう逃げてしまったのか誰もいない。火の手は迫ってくる。
鷹野橋から川筋をのぼり比治山橋を渡ってやっと比治山下の電車通りに出た。そして大正橋を目ざして走った。ところが電車通りも火の手が上がっている一ヵ所は熱いのをこらえどうにか走り抜けたがその先でも火の手が上がっている。もう前にも後にも行けない。このままでは焼け死んでしまう。右手の比治山に逃げるより方法はない。火の子をかぶりながら比治山によじ登った。
道路にも川筋にも負傷者が多かったが山に登ってまた驚いた。比治山に救護所が設置されていたが負傷者で一杯だ。建物の中に入れず外にうずくまり水、水とうめいている。救護所の前に死傷者の名前が張り出されている。子どもの名を呼んで探している母親の顔も血まみれである。地獄とはまさにこのことだと思った。
比治山から段原の女子商の前を通って東大橋を渡り勤務先の広島食糧事務所に昼前やっと帰り着いた。勤務先の南蟹屋町でも全壊した家があり、倒れない家も爆風で窓は全部飛ばされている。爆心地から四粁も離れているのに窓ガラスによって大勢の人が負傷した。
その日の午後から私ほか数名の者が行方不明の職員や家族の安否を尋ねて三日間探し歩いた。救護所、病院、学校等を回り死傷者の名前の張り出しも見て歩いたが、手掛かりなく、被災現場から逃げることも出来ず死亡されたものと思う。
三日間歩き回った街の状況はとても悲惨なもので、特に川筋には水を求める負傷者であふれ、力尽きた人の死体が何体も川に流されていた。死亡した沢山の死骸は街角に集められ、荼毘にふされた。
多くの人を焼きつくした火は消え、その跡は見渡すかぎり焼野が原となってしまった。いくら超大型爆弾でも一発でこれほど大きな被害が出るとは考えられないことであった。
広島の 悲惨な姿 生き地獄
(後略)
※ この被爆体験記は、一部を抜粋しています。
出典:『私の原爆体験記 戦後五十年に想う』妹尾治人 平成7(1995)年
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