この年の夏は、日本国中で汗と涙の熱いドラマが多く生まれた。
このドラマも、その一つである。
昭和二十年八月四日
三菱重工業株式会社広島造船所の動員学徒教官詰所から、昼休みに、私に出頭するように所内電話があった。毎日毎日、朝早くから夜遅くまで、学徒動員という名目で、くる日もくる日も働き続けていた。勉強は何一つせず、腹はいつも空いているし、いつ果てるともしれない回復不能の疲労感、まだ幼な顔の残る少年時代の躯に、えたいのしれぬ巨大な何かが、いつも圧迫感としてのしかかっていた。
過負担の労働、絶望的な日々、青春とは名のみ、身辺は灰色に染まっている。
ただ、つらい職場に朝早く起きて休まずに出勤できているのは、同じ職場に今春配置された優子さんの存在が支えとなっているだけである。
高等師範から動員されたという女子挺身隊の班長である優子さんは、その名のとおり優しく美しかった。カスリのモンペに防空ずきんを背負った姿は、やぼったい服装なのに、優子さんの姿はスマートで、なにかが匂うような気品を秘めている。
私とは二つも三つも年上の姉さんであるのに、姉とは見ず、一人の女性として遠望していた。地味なネッカチーフの下に艶やかな黒髪、誰よりも白い頬、細くて長い眉毛、澄みきった目、形の小さな鼻、口紅もつけていないのに真っ赤な唇が仕事をするときは、強く一文字に結ばれて、それが、また別な美しさに見える。
優子さんの側を通ると、微かながら良い香りが、女の匂いが鼻孔をくすぐる。
溶接の火花が飛び交い、グラインダーの回転する騒音の中に美しく爽やかに咲く白い花に見えた。
私は一度も言葉を交したことがない。朝礼も別な場所に整列するし、休憩場所も別である。灰色の日々ではあるが、秘そかな楽しみを与えてくれる職場でもあった。
たった一度、昼食のとき、食堂で偶然向かいあって座った。優子さんは、私の湯呑にお茶をそそいでくれた。割り箸を割り弁当を食べようとして御飯に箸を入れると、箸がポキッと折れた。米と麦の半々の冷飯は変に固まっていたのかもしれない。口に入らぬ転がった御飯を眺め、折れた箸を見つめていると、前の優子さんが、そっと自分の箸を私に差し出してくれた。
「いいから、お使いなさい」
「・・・・・・・」喉に唾液がつまって声にならない。
赤く塗られた女性らしい箸が私の手に握らされた。やわらかい温かい指が触れた。
体が熱くなって「ピョコン」と頭を下げたけれど、どうして、もう少しましなお礼の言葉が言えなかったのか、年齢に似あわぬ幼稚な礼儀知らずの態度だった。反省がある。 優子さんが、どうやって食事を済ませたのかも気の廻らない体だけ大きな少年だった。
食事が済むと借りた箸をきれいに洗った。洗うほど漆が光り赤い色が鮮やかだ。何度もその表面を撫でてみた。優子さんと触れた手の指のように滑らかで温かく感じる。その箸を持っていると、なんだかほのぼのとする。
優子さんに返却しようと目で探したが見つからない。
(あっ、そうだ、教官室へ呼び出しを受けていたのだ)
箸と空の弁当箱を雑嚢にしまうと急いだ。第二船殻工場の二階へ鉄の階段を上りきると、そこが教官室だ。
「四年二組、田中まいりました、中村先生をお願いします」不動の姿勢で敬礼した。
「ああ、中村先生か、ちょっと待て、中村先生、中村先生」若い石松先生が呼んでくれた。
衝立の向うから馬づらの中村先生の顔が覗いた。馬のような長い顔をされておられるのでアダ名が「ホース」と言う。日に焼けた青黒い顔のなかに真っ黒な目が動いている。
この先生は、いつも何かオドオドしている目である。足がながく、背が高く、顔が長いので本当に馬に似ている。馬の目は大きく優しく静かだと思う、だが「ホース」の目は、いつも動いている。キョロキョロではない、オドオドに近い。
「ホース」は、我々の担任であり、英語の先生なのだが、戦時中は敵国語のため英語はほとんど習っていない。どの先生も学徒動員生徒の引率管理の役目で授業はしていなかった。
一年くらい前までは、午前中、交替で授業を受けた。数学、物理、国語を習った。しかし、戦局が不利になると、その授業も中止となり「増産、増産、一億火の玉」の掛け声に追いたてられていた。中村先生の英語は動員初めから授業されていない。いつ首にされるか判らないからか、オドオドしているのではないだろうかと噂しあった。
「おう田中か、ずーっと前申請の出ておったノーパンクタイヤの支給のことや、やっと割当があってようやく手に入った、お前の家は宇品で遠いから一番先に配給する、二本渡す、大切に使え」
「先生、ありがとうございます、前後一本づつはめて自転車に乗って通勤してもよいでありますか」
「うん、よし、自転車なら早く来れるか」
「はい、電車より十五分は早いと思います」
「よし、よかったな、帰ってよし」
「ありがとうございました、田中、帰ります」先生の目を見て敬礼をした。
電車より早く出勤できるのには理由がある、自転車が電車より速度が早いのではない。電車は、広島の市内を北廻りで遠く迂回して紙屋町経由、土橋まで行く、そこで江波線に乗換えて終点で十五分歩く、約一時間ちょっとかかる。だが、自転車ならば宇品から鷹の橋を西に横切って近道をして江波へ抜ける。距離が半分くらいになる。広島造船所には四十五分で着く、それで自転車なら早いという訳だ。
帰りの電車の中でノーパンクタイヤを汗ばむほどしっかりと握りしめ、雑嚢の中の赤い箸をそっと覗いて見た。心が豊な日であった。
帰宅して早速、林自転車店で新品のノーパンクタイヤを取付けてもらった。
「よう手に入りましたね」と主人が感心していた。
日が落ちて、瀬戸の夕凪の夜、試乗してみたら、頬や躯のまわりに風が起って涼しく軽かった。
八月五日
いつもより早く目が覚めた。今日も天気は良く、冷んやりした空気が窓から流れる。朝食までに自転車を磨き油を差して整備した。
優子さんの赤い箸は、きれいな白い紙に丁寧に包んで返却しようと、すでに雑嚢にしまってある。母はなにも知らない。今日の弁当は、別の箸を入れてくれるだろう。
「行ってきます」
「気をつけてお行きよ、自転車だから」
母は表の戸口まで出て見送ってくれた。母のモンペの柄と、優子さんの柄が似ていると思った。
予想のとおり自転車はスイスイと走る、下り坂はいつまでも軽く転がる。やっぱり十五分早く着いた。明日からは、それだけ朝ゆっくりでき、早く帰れる。
昼の食堂で優子さんを探した。白く美しい顔がすぐみつかる。昨日の箸を差し出した。
「・・・・・・・」どうしてか、優子さんの前では言葉がでない。胸のなかでは言葉が泳ぎまわっているのに、お礼の台詞が飛び交っているのに、緊張している。不甲斐ないことだ。
「あら、いいのよ、返してくれなくても、私はお箸を持ってきていますし・・・、そうね、あなたにあげる、ホホホ・・・」
顔が真っ赤になって、また「ピョコン」と頭を下げた。ちょうど通りかかった山地君が見つけて、
「田中、どうしたんや、なにか悪いことをしたんか」
(理由なんか説明するなんて、もったいない。そんなことを友達に話したら、大切なことが減ってしまう)
なんにも言わずに飛んで逃げた。山地君は「ポカン」としていた。
食堂の隅っこで隠れるようにして、あの箸で食事した。
(ああ、美味しかった)
この日も心豊かで仕事もつらくなく、腹が減ったとは思わなかった。
自転車も調子いい。
私たちの仕事は、後年知ったことだが、特殊潜行艇「回天」の胴体を製作していた。
その夜遅く、空襲警報が鳴り響き、眠りを妨げられた。毎度のことで慣れてしまって防空壕へ退避しようかと寝床から身を起こしかけたが、あまりにも眠たく、ままよ、どうにでもなれと、そのまま、ぐっすり眠込んでしまって朝を迎えた。
八月六日
快晴の空は青く、自転車は風を切って進む。
(今日も、あの箸で食べよう)
口笛でも吹きたくなる気分。
(そうだ、今日から週番なんだ、職場に着いたら一番先に、教官室に行って日誌や出勤簿を預かって・・・、忙しい日になりそうだな)
守衛所に敬礼して身分証明書を提示して入所する。憲兵が三人、恐い顔をして立っていた。いつも威張って、いつも人を疑っている、スパイではないかと調べている。僕たちは、中学生だから調べられたことはないけれど、いつか朝鮮人が、びどいめに会っているのを見た、殴られ、蹴られて可愛そうに・・・。
八時、朝礼、船殻工場の西側の埋立地の砂場に集合する、朝日を受けた工場の鋸の歯型の屋根の連続が影をおとして長い。その屋根の回転窓のガラスが太陽光線に光ってまぶしい。
点呼が終わり、教官の訓示を聞いていたら、警戒警報のサイレンが鳴りわめき、訓示は切り上げられて解散した。私は週番なので小走りに教官室に急ぐ。本日の出席人員、欠席者の氏名を報告台帳に記入するためだ。
私の走る後を赤トンボがついてくる。
我々が、この造船所に入所したころ、電気溶接の練習を兼ねて作った鉄の階段を二段ずつ駆け上つた。
八時十五分、頂上の踊場に着いて教官室の扉を開けようとした瞬間、
「ピカッ、ドーン」と一瞬、目もくらむ閃光が網膜を焼き、頭の中が真っ白になった。
途端に躯全体が熱く燃えた。
(ああ、熱い〓)半袖の腕を抱いて身を縮めた。凄い熱閃。
強力な爆風が躯を煽り、五十キロの躯が宙を浮き、もて遊ばれた後、もんどり打って二階から地面に叩きつけられた。背中から落ちた、息ができない。
(ううーん)
「バリバリ、ガラガラ、ドシャン、ドーン」
とてつもない轟音がして、工場の窓ガラス、スレートが破片となって上から降ってくる。とっさに週番カバンを頭に抱え身を小さくして伏せた。なにかが背中に腰に当たり痛い。耳が聞こえなくなり、嘘のような静寂がひろがる。無声映画のように瓦礫が降り、砂塵がモウモウと巻き上り竜巻のように移動していく、口も鼻も砂だらけ、やっと呼吸ができた。工場の中から人がよろめき這いだしている。何が起こったのかかいもく解らない。
階段の下の空間に、数日前、鋼の焼入用として百俵積み上げた木炭から「パッ」と火を発していた。
その階段だが、ひごろ休憩時間に階段から飛び下りる遊びをしていた。体格のよい学生でも七段目から跳んで、やっと砂場に着地した。私などは、五段目がちょうどの勾配である。その頂上の十二段目から吹き飛ばされた。よくも頑丈な鉄の階段の途中にひっかからずに砂地に落下したものよ、よほど強烈な爆風だったと想像される。
頭を左右に振った、戦闘帽からザラザラと砂が落ちて首筋に流れこむ。耳が聞こえだした、腕がしびれている。そっと立ってみる、腰が痛い、でも、どうやら立てた。空は一時的に暗くなり、爆風が去ると濁った明るさが戻った。
工場は鉄骨だけの裸となり、頭から血を流し躯が血だらけになった人々が工場内でうめいている。各所で煙が昇りはじめた。日ごろの防空訓練で非常事態発生のときは、朝礼の西広場に退避することに決められていた。そこえ急いだ。
何度か瓦礫に足をとられ倒れた。多くの人々が同じ方向に走る、あらゆる所で人が倒れている。動かぬ人、もがいている人もある、その人々を助ける余裕がない、走った。
舞い上った砂塵と焦げくさい臭いが鼻をいたぶり、汗が滝のようにながれた。
西広場には沢山の人々が集まり北の空を指差している、大きな天に柱するキノコ型の雲が立ち昇っていた。その雲の中心は真っ赤に炎と燃えている。メラメラ、モクモクと、空襲警報のサイレンが狂ったように鳴りわめく。市内の方向から煙が上る。
ちょうど北の方角に江波山(標高六十米)があり、頂上に高射砲陣地があった。その火薬庫が爆発したのかと思ったが、高射砲の砲身がいつものように空をにらんで普段のとおりに見える、煙も火も出ていない。
わけも判らず西広場で、呆然と放心して時間が過ぎた。サイレンが止むと急に静かになった。いつもは工場の騒音、リベットを打つ音、コンプレッサーの音、モーターのうなる音が一切しない。
太陽が高くなり日陰のない西広場はジリジリと暑くなった。海を埋立てた海岸の砂場、照り返しで熱い、喉も乾いてきた。
躯は砂でジャリジャリして、汗が絡んで気持が悪い。頭や首、腕と手を順次点検してみたが異常がないようだ、腰が痛かったのも治った、ゲートルがゆるんでいたので巻きかえた。足も大丈夫。
(ああ、助かった、それにしても何ごとが起ったのだろう、大ごとじゃ)
級友たちも数名、ガラスの破片で負傷した者がいたが、これもたいしたことはないようだ。
一時間くらいした頃、子供連のお母さんが、モンペ、上着がヅタヅタになり髪が逆立ちになって、四歳くらいの子の手をひいて避難してきた。子供は頬から血を流して泣いている。それが始まりで、老人の男の人、小学生の一団、血だらけの兵隊さん、杖をついた老婆、防空づきんをかぶり衣服がボロボロになった娘さん等、またたく間に、四、五十人流れこんできた。
「お母さん、お母さん」と一人で泣く幼児もいた。
「広島の街、全部が燃えている」
「子供が植木の水やりで学校に行っている、帰ってこない」
「うちのおばあちゃん知らんか」
泣き声、喚き声、痛み声。
普通なら一般人は、防諜対策で憲兵が入所させないけれど、非常事態なので特別に避難させたのだろう。
白衣の医師が看護婦をつれて手当がはじまった。
「学生さん、ちょっときてくれ」
「私たちのことですか」
「そうだ、あの工場のあたりに行って、タンカか戸板を探してきてくれ」
「わかりました、平山、行こう」
「よしゃ、靴に砂が入っている」
「そんなこと、どうでもええがな、早ようせいや」
走って一番近い工場へと急いだ、工場は足の踏み場もないほど打ち壊され、ガランとして廃虚と化していた。屋根からは青空と白い雲の流れるのが見える。
いつもの防空訓練でタンカの定位置は知っている、どの工場も共通の定められた壁に架けてある。所定の場所へ着いたが見当たらない。
「どうしたんじゃろうな、誰かもう持って行ったんかな」
「そんなことはないんじゃろ、あの爆発から誰も工場には入っていないんだからな」
見まわすと十米くらい先に、赤十字のマークのついたタンカが旋盤の歯車に寄りかかっていた。
「あそこにある、爆風で飛ばされたんやな」
瓦礫をのり越えて平山君が引きづってきた。二人で前後を持つと走った。汗がとめどなく流れて、前の平山君も肩で息をしている、苦しいのだな。
医師のところに着くと、
「おう、あったか、この人はもう死んじょる、死体を、あの電柱のところへ運んで行け、注意してな」
白髪の国民服を来た老男子が、首から上を血だらけにして倒れていた。白髪も一部赤く彩られている。顔もよく判らぬくらいに血糊がこびりつき赤く斑になっていた。恐ろしい形相である。
「平山、そっちを持てや」私は死体の脚を持ち上げた。
「わしゃ、いやじゃ」
「何を言うとる、他の者もボヤットしないで手伝え」医師が怒鳴った。
数人が群がって死体をタンカに乗せ、三百米くらい離れた電柱の側の凹みに死体をおろした。もうすでに、誰が運んだか二体が横たわっていた。その隣に丁寧に一列に並べた。恐いとは思わなかった。
それからは、何んとなく死体運搬係となってしまって三体運んだ。女の人もいた。ひどく火傷して、水ぶくれになった大きな死体だった。
「造船所に逃げてきて、水を欲しがったので飲ましたら、安心したのか息を引き取ってしまったのよ」と看護婦さんが言っていた。
そんな作業をしていると昼になった。市内方面からは前にも増して火や煙が猛々と望見され、空は夕立の前のように真っ暗になって周りも黒く霞んだ。
避難民も増え、百人くらいになっただろうか、一団となってかたまって不安げでみすぼらしい。
乾パンの配給があり、大きなヤカンで水が運ばれ、コップがないので、皆んなヤカンの注ぎ口に口をつけて飲んだ。乾パンが口の中でパサパサしていたのが、水を飲むと薄甘い味がしみて美味しい。朝からやっと飲めた、なまぬるい水が無上にうまかった。
食後、集合命令があり、男子学生全員、造船所の講堂に収容された。
そのころから、暗かった空から雨がポツリポツリと落ちだしたと思ったら、夕立のように激しく降った。その雨は珍しく黒い色の雨であり、初めて見た雨の色であった。とにかく今日は異変の日である。雨に濡れた人は、石油のように粘る黒い雨だと言っていた。
我々は講堂の中だったので濡れずにすんだが、雨は一時間くらいで上り、雨のお陰か講堂の中は涼しいと思った。
夕四時ごろ、便所へ行ったついでに、造船所の東海岸にでて、宇品の方面が目視できる場所へ急いだ。江波はちょうど宇品の真西に位置し、宇品がよく望見できる。吾が家と思われる方面は、煙も火も見えず、これで少し安心した。
向宇品の山は静かに緑をたたえて遠望でき。海は茶褐色に濁り、なんだか焦げ臭く匂った。
また、この日は不思議なことに、あれ以後、空襲警報が鳴らない。いつもなら日に数回は防空壕に入らされるのに。
夕五時、教官より、
「市内は電気、水道も止まり、大火事で延焼中なので帰宅することはできん、交通機関も止まっておる、今日は安全のため、ここえ泊めてもらう、後から毛布と夕食が配られるはずだ」と申渡しがあつた。そのことを家に知らせたかったが、電話も不通で誰も連絡はできない。
夕食は、すこし大きめのオニギリ一個とラムネ一本がでた。どうして、オニギリとラムネの取り合わせなのか不思議だと思ったりした。ラムネは温い。
ワイワイ、ガヤガヤ言いながら食事を済ませると辺りが暗くなっている。
ふと、優子さんのことが心配になった。
(優子さんは大丈夫だろうか、怪我なんかしていないだろうな)
我々中学生とは別な場所で朝礼をしていた、工場と工場の建物の間の広場でしていたはずである。工場の建物は鉄骨だけの裸になっているけれど、倒れているものがないのは昼間見ている。
また、便所に行くと申告して講堂を出た。廃虚となった工場群は暗闇に黒々と敗残者のように、うなだれている。
正門守衛所あたりに灯が小さく見える、食堂付近にも灯がチラチラと瞬く、食堂にそっと近づいてみた。百坪ほどの相当大きな食堂だが、中には職員、工員が一杯で、てんでに立ったり座ったりして、ざわめいていた。
西側の一角に女子挺身隊の人々が集まって、ローソクの火がほの暗く辺りを染め天井にゆらいでいる。窓から食堂内を覗いたが、黒々とした人々の集団で顔は定かでない。十数分間見つめたが、結局、優子さんは発見できず、その上、本当に小便がはずんできたので、用を達すると講堂に知らぬ顔をして入った。
堅い講堂の床板の上に毛布にくるまって寝ると、
(今日一日、色々なことがあったもんだな、新型爆弾と噂が流れていたが大変なことが起こったものだ、死体も運んだ、優子さんはどうしているだろう、明日は会えるだろうな、うちの家族はどうしているだろうか、心配しているだろう。ああ、それにしても喉が乾いたな)と思ったりもした。
灯火のない暗い講堂は、いつの間にか静かになり、その静かさの谷間に私の眠りは誘いこまれた。
熱い暑い長い一日であった。
八月七日
ざわめきで目が覚めた。五時半、天気は良く昨日と同じく炎暑になりそうな朝である。首が痛い、腕が軽くしびれている。首をまわし前後左右に運動させたが、ある点にくるとたまらなく痛む、平山君に見てもらったが外傷はない。
洗面所の水道は止まり、顔も洗えず、躯も粘って気持が悪いが誰も我慢している。
朝食は、また乾パンが十個ほど配られヤカンの水を飲んだ。
八時、朝礼、西広場へ集合、週番勤務を続ける。
「昨日は家へ帰っていないので、家族の人が心配しているだろう、また、皆んなも家のことが気掛かりだろう、市内はまだ燃えているらしい、よくは状況が判らぬが、一応憲兵隊の許可も下りたので、いまから帰宅する、充分注意して行け、もし帰れなかったら造船所に引き返してこい、先生は今日一日残っている、また、昨日の爆発で所内でも死者が十六名でた、その内女子挺身隊の人が四名死んでいる、まだ空襲がいつあるかもしれん、決して死なんように、必ず防空壕に避難せよ、用心して行け」
石松先生が悲壮な声で訓示した。
(ええっ、挺身隊の人が四人も死んだのか)胸騒ぎがした。
解散して自転車置場にいくと、自転車は全部同じ方向にそろって倒れていた。爆風にやられたのであろう、砂に埋まっている部分もある。自転車小屋の屋根もふっ飛んでいる、自転車を引き起したら荷台に雑嚢が昨日のまま括りつけてある。
平山、山内、河本も自転車を引張りだしていた。雑嚢の弁当箱を開けて匂ってみたが傷んでないようだ。優子さんの赤い箸もちゃんとある。
防火用水の縁に腰掛けて弁当を食べた。みんなも私に習って弁当を開いている。
弁当を食べ終ると、急に元気が出て、
(矢でも鉄砲でももってこい)の心意気になった。
自転車を押しながら正門に向かったが、どうも気になって途中の食堂に立寄った。挺身隊の優子さんを一目見て帰ろうと思って、昨日の窓から食堂を覗いたら、全員整列して頭を下げ、どうも黙祷している様子である、やはり、四名の冥福を祈っているのだろう、列が乱れて解散したようだ。戸口から出てきた人は目が赤くなっている、泣いた目だ。
「あのー」
「はい」手拭で目を拭いている。
「どなたが死なれたのですか」
「はい、千葉信子さん、岡田洋子さん、山口紀美子さん、渡辺優子さんなの」
「ええっ、渡辺優子さんが・・・」
目の前が真っ暗になり、自転車が倒れかかってきた。どうやら踏みこらえて、
「すみませんでした、御冥福をお祈りします」と、やっと言えた。
歩きはじめると涙がポロポロでた。優子さんの上品な顔が目の中に二重写しになった。このまま、ここに座りこんでワンワン泣きたい気持だ。
(どうして死んだりしたの、よりも選ってあなたが死ぬなんて・・・、ぼくの天使がいなくなってしまう、心の支えがなくなってしまう、昨日まで元気で美しい顔を見せてくださっていたのに、天女のように空高く舞い上って行ってしまうなんて、信じられない。まだまだ優子さんのことをいろいろ知りたかったし、見つめていたかったのに・・・、ああ、人の命なんて、こんなに、はかないものなのか、神も仏もないものなのか、もう優子さんに会えないなんて、ぼくはいやじゃ)
男泣きした。優子さんの面影がみだれ飛んだ。
やっと吾にかえり、
(初めて恋したあなたのために、心から祈ります、安らかに眠りたまえ)
砂に埋まる道を自転車を押して歩いた。熱い道だった。
約三カ月前から優子さんの存在を知った。いつも遠くから眺めているだけの片思いであり、食堂の箸の件で一度だけ声をかけられたが、私からは一言も言えなかった。
たったそれだけの、誰も知らない片思いが、どれだけ、あの辛い毎日の労働を耐えさせてくれたことだろう、ぼくの日々の生活を、どれだけ張りをもたせてくれたことだろう。ぼくの心の中のマドンナとして勇気を与えてくれた、憧れの人と会えると思うと職場勤務は苦にはならなかった。すべて優子さんのお陰だったのに・・・。
(ありがとう優子さん、だが、ぼくは何もしてあげられなかった)
赤い箸が一組残った、十七か、十八歳の純白の死である。
涙がとめどなく流れでて自転車の前が霞んで見えない。
「おーい、田中、一緒に帰ろうや」平山の声、山内、河本もいる。
慌てて涙を拭った。
「どうしたんや」
「汗が目にはいったんや、暑いのお」本当に太陽は八月のたくましさに育っていた。
四人が一団となって正門を出た。江波山をまわり、江波街道にさしかかると、土手の下の家はほとんどペシャンコに倒れ、一部からは火がでて盛んに燃えていた。自転車のペダルをしっかり踏んで急ぐと、黄なくさい臭いが鼻をつく、ものの焦げる臭いと、腐敗した臭いと言うのか気持の悪いヘドのでそうな臭いがする。
アスファルトの道路は、強い太陽光線を吸いとって自転車の轍がめり込んで柔らかい。正門から十数分くらい走って山陽防腐木材会社の前までくると、防腐用のコールタールの貯蔵タンクから真っ赤な炎がメラメラと道路をなめつくし、黒い煙が悪魔の手のように我々に迫ってきた。
「もう、これ以上行けんのー」
「足が熱い、道路のアスファルトが燃えて煮えたぎっちょるぞ」
「これじゃ帰れん、引き返そう」
「おお、そうしょう、このままじゃ、下手をしたら死んでしまうぞ、熱い、熱い」
自転車の向きを変えるために道路に下り立つと、靴の底が焼けるように熱い、そしてめり込む。本当にアスファルトがフツフツと沸いていた。
やっと方向をかえ自転車にとびのり引き返した。すると、自転車のノーパンクタイヤから煙を引いていると思ったら燃えだした。気が転倒して必死に走るほど酸素を供給されて燃えあがってくる。
昔、サーカスでピエロが燃えさかる火の輪の自転車に乗って曲芸をしたのを思いだす。ついにタイヤは燃え尽きたのか、外れたのか、リームで走ってガタガタと音がしはじめて尻が痛い。私の自転車だけでなく、四人の自転車も、ほとんど同じようになってしまった。
「もういけん、自転車を捨てよう」
「おお、そうしょう、歩こう」
各自、自転車を太田川の土手から川の護岸に押し捨てた、土手の坂を面白いほど勢いよく倒れもせずに転がり落ち、岸辺の岩に当たってもんどり打ってひっくりかえった。
こんなせっぱ詰まったときに、ようこんな子供のような遊びごとをしたものだと思った。
現代は、自転車など駅前や繁華街に多数放置されている様子であるが、当時は大切な財産であり、やっと手にいれた新品のノーパンクタイヤを含めて重大な損害である。
再び来た道を造船所に向かってトボトボと歩く、異臭が鼻をつき煙が目にしみる。アスファルトは煮えているので、川土手の草の部分を選んで歩いた。
一段高い土手の上からは眺望が開け、いつもならゴテゴテと屋根や洗濯物の混雑のある風景が、この爆発で建物は倒れるか、燃えるかして、街は広々として遠く北の山の麓までも見渡せた。数カ所のコンクリートの高い建物が焦げて黒く残っているのがぽつりとして淋しい。
江波山の手前、江波ダンゴの売店の近くで民家が半壊して傾いていた。その庭に大きなイチヂクの木があり、その木の下に沢山の熟れた果実が落ちて散乱していた、無人なので四人で拾って食べた。
「うまいのう」平山が言った。
イチジク特有の匂いが異臭に勝って、歯にザクザクと粒々の当たる感触が心地よく口に甘味を残し乳液が手に粘りついた。大きいので四個食べたら腹がふくれた。三個拾ってポケットに入れる、木の横の溝に猫の死体が転がっていた。この爆発で家畜にも被害のあることを初めて知った。
一息いれて歩きはじめた。正門のところに、ちょうど中村先生が居られて事情を話し憲兵に許可を得て入門した。
教官室で汗を拭い、見てきた状況を全部報告した。四人でポケットのイチヂクをだし、教官に提供したら、中村ホースも石松先生も、うまそうにたて続けに食べた。
そうしているうちに、次々と級友が帰ってきた。やはり、どの道を通っても市内に入ることはできなかったようだ。
また講堂に集まりガヤガヤと不安に過ごした。
私のまわりに、おなじ宇品方面の山地、宮本、戸田、大島に、似島出身の浜田が集まった。宇品や似島は、やられてなくて大丈夫だろうと話しあったが、どうやって帰宅するか議論百出した、しかし、いい方法がない。
「そうだ、岸壁に小舟がないかな、舟なら漕いで帰り、今度くるとき乗ってくればいい、どうだ」
「いい、考えじゃのー、そいじゃ、舟を探しに行こう」
「そうしょう、そうしょう」衆議一決して、六人ぞろぞろと岸壁へ歩いた。
浜田は赤いゾウリを履いていたので、
「浜田、靴をなくしたんか」と、私は聞いた。
「いや、このゾウリは、山県という彼女に貰ろうたんや、命より大事なもんや」
(わかる、わかる、僕も、あの赤い箸が大切なんだもの)
歩きながら優子さんのことを想うと、また、涙が溢れそうになり悲しみが胸をしめつけた。
灼熱の太陽、炎天下をあちこち歩きまわったが小舟はない。岸壁のクレーンの下の日蔭で一休みしていると、南千田町学生寮の背の高い大原、ちびの柳川が近寄ってきた。
「お前ら、なにしょるんや」大原が尋ねた。
「舟があったら、舟で帰ろう思ってのー、探しよるんじゃが、ないのー」山地が答えた。
「わしらも、ずーっとまわってみたが一隻もないで」
「そうか、駄目か」みんな、がっくりした顔をした。
「おい田中、お前は水泳部じゃろうが、泳いで帰れ」山地が言った。
「おお、そうじゃ、泳いで帰る方法があったな、そうするか」
「いや、わしゃ、いやじゃ、ちよっと遠いでな、遠泳は苦手じゃけんのー、一年のとき、宮島で遠泳があったじゃろうが、あのときも、わしは、途中で棄権して船に助け上げられたんじゃけんのー」宮本が言った。
「わしもじゃ、遠泳は自信がないけーの」戸田も言い、大島もうなづいた。
いろいろ相談して、結局、似島の浜田と山地に、私が泳いで帰ることになった。
以外にも、学生寮の大原と柳川も連れていってくれと言う。他の者は泳ぎに自信がないから残ることになった。
「ほんなら、わしらは泳いで帰るで・・・、教官に報告しといてくれよな」
「よっしゃ、言うとく、大丈夫か、気をつけてな」
「ほいでも、お前ら泳げてええのう、わしらは帰ることはできんがな」
「ええわい、もう一晩泊まろうで、しかたがないわいな」
ゲートルをはずし、衣服、靴を雑嚢に入れて頭の上に乗せ、ゲートルで顎にかけてグルグルと巻いた。ちょうど、大井川の川渡りの図となった。
パンツだけで海に入ると、海水はなまぬるく焦げくさい臭いが鼻をつく。かまわず頭の荷物が濡れぬよう用心して泳ぎだした。
浜田は岸辺で躊躇している。岸壁の上から泳がないものが見下ろしていた。
「おーい、浜田、来んのか」
「いやー、行くけどよ、ゾウリをどうしょうかと思ってのー」
「ゾウリなんか履いとっちゃ泳げゃせんで、捨てい、捨てい」
「そういう訳にはいくかい、命より大切な品物なんじゃ」
浜田はゾウリを履いたまま海に入った。山地と学生寮の大原、柳川の五人で、ゆっくりと泳ぎはじめた。海に入ると宇品の防波堤が、ひどく遠くに見える。
岸壁の誰かが手を振ってくれた。
しばらくは言葉もなく泳ぎつづけた。
「おおっ、死体や」山地が悲鳴をあげた。
「恐れさすな、死体なんかじゃないわい、クラゲじゃ」
私の躯にも先ほどから軟らかいものが何度も触れている、死体かもしれない。死人の手や足だったかもしれない、でも、そう思うと泳げなくなる、無理にでもクラゲと思うことにした。
「田中、わしはもう駄目じゃ、助けてくれ」
三十分くらい泳いだころ、浜田が水を含んだ声で叫んだ。
「しっかりせい、もうすぐじゃ」
「ゾウリが脱げそうじゃ、流される」
「まだ、ゾウリを履いとったんか、捨てにゃ本当に溺れるぞ、ゾウリと命はどっちが大切なんじゃ」
「ああーん、命じゃ、いや、どっちもじゃ」半泣きの声が震える。浜田は本当に溺れるかもしれない。
「ゾウリを脱いで、わしに渡せ、わしが持っとってやる」
「本当か、そう言うて捨てるんじゃろう」
「嘘は言わん、ゾウリを脱がにゃ、ほんまに死ぬぞ、覚悟せい浜田」
私は本当に怒った。
「ふあーん、判った、これがゾウリじゃ、」
濡れて重くなったゾウリを私に渡した。ゾウリの鼻緒が、やけに赤く見えた。私は立ち泳ぎをしながら素早くパンツのゴムに挟んだ。
「田中、ありがとう、すごく泳ぎ易くなったわ」
「よーし、みんな頑張って行こうぜ、山地、寮生も大丈夫か」
「うん、ゆっくり泳いでくれよ、たのむ」
後年、海水浴に行ったとき、浜田のことを思いだして、試しにサンダルを履いて泳いでみた、履物が脱げ落ちそうになって五分も泳げなかった。浜田は、よくも三十分間も泳いだものだと感心した。余談はさておき。
さらに二十分ほど泳ぐと、ちょうど太田川の下流に出て、川の流れの影響で出発点から海の方向に、ずいぶん流されて宇品が遠くなった。
ところが、どうしたはずみか、泳いでいる足が海底に当たる。立ってみると肩のところで背が立った。
「おーい、ここは浅いぞ、こっちへ来いや」浜田をはじめ、みんなバシャバシャと音をさせて段々寄ってきて、浅瀬に立って休息することができた。ありがたい、助かった。
川下で川砂が堆積して海底が洲になっているところに偶然たどりついたのだ。幸運である。充分休憩したら元気がでた。
「田中よ、わしら、ここから南千田の岸に向かうわ、すぐそこに見えとるけんのー」
大原が、どもりながら言った。
「おう、そのほうがいいかもしれんのう、近くに見えても案外遠いものじゃけん、ゆっくりと気ながに用心していけよ、流れもあるしのー」
ここで大原と柳川に別れた。
上流からは、木材、竹、腹の大きく膨れた死体、煙をだしてくすぶっている電柱、桶、二十米先を無人の釣舟が流れていく、あの釣舟が捕まえられたら助かるのにと思ったが、干潮なのか川の流れが早い。釣舟はどんどん行く、追いつかないと判断して諦めた。
丸太が流れてきた、直径三十センチで長さ三メートルくらいと太い。
「浜田、その丸太を捕まえろ」
浜田が一番近かった、その丸太も早く捕まえないと流れてしまう。
モタモタと浜田がしているうちに、浜田の横を通り過ぎた。このチャンスを逃してはならない。私はおもいきって、頭の雑嚢の濡れるのを覚悟でダッシュして丸太に取りついた。必死で丸太に向かっているとき、何かが躯に触れた、クラゲとは違う感触だ、危なく頭の荷物が落ちるところであった。
「浜田、山地、早くこっちにきて丸太につかまれ」
「わかった、待ってくれ、頭の荷物が落ちるー」
二人とも必死である、浜田は犬泳ぎだ、アップアップしながら寄ってきた。そうだろう、無理もない、私は水泳部で、動員前、毎日一、二万米も泳いで鍛えられてきた。「河童の田中」とも言われ、後年国体にも出場した、「芸は身を助ける」で苦痛ではないが、この二人は、私からみれば素人だもの。
天から恵まれたような丸太は、充分な浮力をもっており、三人で押しながら、しがみつきながら永い時間泳いだ、陽がずっと傾いてきた。
少しずつ宇品に近づき、夕五時半ごろ宇品の防波堤へ泳ぎ着いた、江波の造船所を出発したのが十四時ごろだから三時間半も泳いだことになる。
山地も浜田もよく頑張った、全員無事でホッとした。
上陸するとき、防波堤の岩についた蛎殻で、右のスネ部を縦に五センチくらい浅く切った、長時間水につかっていてフヤケたスネ坊主を、ちょっと触れた蛎殻により血の糸を引いた。真っ赤な鮮やかな血が海水に濡れて拡がった。
岸壁のコンクリートは、一日中、太陽の燃える熱を吸いとって、まだ熱く、濡れた足の下で沸きあがった。
「熱ち、熱ち、熱ちち」山地も浜田も飛びあがった。
「おーい、田中、早ようゾウリをくれ」
浜田のゾウリは、私の腰で無事である。私は血に染まった足を押さえながら、最後に陸に上った。
「本当じゃのう、熱い、熱い」
「うわー、田中、すごく血が出ているじゃないか」
「なに、心配ない、浅い傷じゃ、いま、この蛎殻で切ったんや、お前らも気をつけよ、ほら、浜田、お前のゾウリや」
「田中、お前は命の恩人じゃ、ありがとう」浜田は私が返したゾウリをおし戴くようにして礼を言った。
「本当に無事に帰れてよかったのう、しんどかったが助かった、ほんま、お前のお陰や」山地が頭をさげた。
上陸すると暑い、足も熱かったが、こんどは躯が暑い。
宇品は予想のとおり煙も上らず焼けてはいないようだが、なんだか不気味に静まりかえっていた。
そこで、苦労をともにした三人は別れて、それぞれ家へ急いだ。
日が暮れかかって薄暗くなっている時刻になっていた。
ひょっこりと、突然現れた私を、父が見て涙ぐんで喜んだ。
「おお、無事じゃったか、よう帰った、心配しとったで、だがの・・・」
ここでも、思いもかけぬ大事件が発生して、ドラマが進行中であった。
(つづく)
長男正晴の日記
昭和二十年八月八日夕方、暑い日が暮れかけた。母は被爆したマサ子に付き添って似の島に行って留守。父は町内を駆け回って留守がち。腹がへった国男がべそをかいて泣いた。たった四歳の幼子、母のいぬ不安もあり私から離れない。無理もない、この原爆が落ちてから、子供心にも異常が起きたことを本能的に身をもって体験しているのだもの。
巌も外から帰ってきて、天井が落ち、ガラスが散った座敷のひと隅で目玉だけ大きく不安な顔でじっとしている。
台所をあちこち探したが、何もない。芋も大根もない。戸棚の引き出しを何箇所も捜したら布に包んだ米を発見した。わずかな量だ。
丁寧に洗って炊いた。いい匂いがして巌も、国男も目が輝き出した。おかずがない。梅干の汁をかけ、赤チソをまぶして三人で食べた。
「白いご飯だね」巌が口の端にご飯粒をつけながら言った。何んと美味しいことか。今でもそれは忘れていない。父も帰ってきて、
「おう、そんなもんがあったのかー、正晴ようやったのー」残った少しを舌ずっみを打って食べた。久しぶりの白い米で腹は満腹にならなかったが、満足感で国男も笑顔になった。
「母は、マサ子は、食事をしたのかしら・・・」とっさに思った。
八月十日、ローソクで過ごした長い夜が明けた。父が下川アイスキャンデー店に頼み込んで、やっと手に入れた氷(六センチ角くらいを二個)を似の島の待ち望んでいるマサ子のところに私(正晴)が運ぶことになった。新聞紙に何重にも厳重に梱包し、それを風呂敷に包んで、陸軍船舶隊(現第六管区海上保安本部)から似の島行きの大発(だいはつ)(木製の焼玉エンジンの上陸用舟艇)に乗った。
「氷は陰に置いておけよ」父は念を押した。私は大きくうなずいた。
狭い船は人が一杯で混雑していたが、瀬戸内海の夏の海はキラキラ輝いてまぶしく、船が走ると風が頬をなで通って平和な気持ちになった。どこで戦争があっているのか、新型爆弾が本当に炸裂したのか。現実が遠く霞んだ。
ところが似の島の検疫所に上陸すると、まず異臭が鼻をついた。焦げ臭い、すえた臭い、腐った臭い、消毒薬の臭い。被爆者が収容しきれず屋外に放置されてゴロゴロしている。足の踏み場もない。地獄絵図。隙間を縫ってマサ子を探した。病棟の薄暗い隅っこに母を見つけ、ぼろぼろに焼け爛れた無残なマサ子がころがっていた。
「よう来てくれたね」母は何夜も徹夜で看病をしたのだろう。憔悴しきって目が落ちくぼんでいた。
すぐ氷を取り出し、かけらをマサ子の口に入れてやった。マサ子は反応なく、氷は口から流れて床を滑った。氷には、新聞の字が写っていた。
「マサ子は天国へ行ってしもうたよ」
母は、声を出して泣きだした。今まで我慢していたものが堰を切ったように・・・。私も涙が溢れて溢れて流れ出た。
気がつくと、すぐ後ろにいがぐり頭の中学生がもがいていた。服の袖に白線二本が見えた。
「お前は修道か」「はい」はっきりと答えた。融けかけた氷を口に含ませてやった。黒く焼けただれた顔が笑ったように見えた。
修道の学生は、袖に二本の白線を入れる規則になっている。私も入れていた。それで識別ができた。
「何年生か」指で二本だした。
「二年生だな」うなずいた。「名前は?」「吉川(きっかわ)です」
後年になって調べたら、日本銀行広島支店長の息子と判ったが、その支店長の一家は全滅されていた。氷を含ませた彼も、似の島で散った。
母と二人でマサ子の亡骸を担架で泣きながら運んだ。
マサ子、広島県立広島第二高等女学校中学二年、十四歳。私は修道中学四年生。帰宅すると、父は、マサ子を抱きしめて慟哭した。幼い巌、国男も、皆が泣くので一緒に泣いた。
結局、マサ子の組は、四十一名のうち、坂本さん、関さんの二名が生き残り、雑魚場町の建物疎開の学徒動員で全滅した。
マサ子は、気丈夫にも、猛火の中をかいくぐり、裸足で家までたどり着き、残念にも戦死したが、遺体は収容されて、最後の親孝行をした。この壮絶な物語は、生き残った関さんが、本にした。
題名 広島第二県女二年西組 関千枝子 図書館にあり
八月十一日
マサ子の遺体を父と私とで、家の西側の防波堤の上で、薪を寄せて荼毘(だび)に付した。火は天に舞い上がり、太陽と火葬の火とで、暑い熱い夏となった。父四十五歳、母三十八歳の田中家の一大悲劇だった。
付記 広島原爆は、一瞬にして広島市を焦土化した。
七万八千二百名 即死者
五万一千五百名 負傷者
それに、軍の機密で軍人の被害は加算されていない。近郷の間接的な被害や、日時の経過による原爆死を加味すると、死者十四万人、負傷者十万人とも言われている。むごいことである、
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