私が何時も思う事は、外国や県外から来られた方々が原爆記念館に見学に見えて、あまりのむごさに驚いた等と感慨深く話されるのをテレビで見聞きする度に、とてもあんなものではない。本当はとても筆舌に表せない悲惨な恐ろしくてむごたらしいものだった。整理された焼野ヶ原の模型を見ただけではとても想像は出来ないと思います。
私が家族を探す為に歩き廻った時は思い出しても恐ろしい。見たことはありませんがこれが地獄だと思いました。
私の主人は中国の中部地方に出征しておりましたが、二一年三月に復員して広島駅に降り駅を間違えたかと思ったそうです。目前に似島が見え、建物はほとんどなく驚いてふり返って駅名を見てやっぱり広島駅だと知った時は真実に驚いたと言っていました。主人がその時見たものは市内は全部片づけられて福屋の建物が目前に見える様な事が今の記念館の様子になっていたのです。
戦地では何も知らされないまま復員して見たものは焼野ヶ原の広島だったのです。直後の様子を知っている私は色々と主人に話して聞かせました。
今でも記念館の見学の様子を見る度にあんなものではないと一人で思って居ます。
それにしても北朝鮮は次々と核実験をし世界の国々からの反対を聞かないようですが地球上に原子爆弾がある事、それを造る事それだけの頭脳をもっと大切に世界の為に人類の幸せの為に用いる事は出来ないものだろうか。親はそんな物を造る為に頭の良い子供を産んだのではないのに、賢い子供時代を先々世の為になる子供をどんなに楽しみに満足して育てた事でしょう。世の為に役立つ原子力にのみ用いて欲しいものです。
平成二十一年八月二十日 九十二歳
被爆時年齢 二十八歳
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