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8月6日の記憶 
沖盛 眞佐子(おきもり まさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 広島女学院高等女学校 広島鉄道局(広島市上流川町[現:広島市中区上幟町]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
私は当時二十一歳、双三郡三次町(現在の三次市)に家族と住んでいました。勤め先は宇品町にあった広島鉄道局の旅客統計審査課でした。備後十日市駅から汽車で広島駅まで行き、当時0番線から出ていた宇品線に乗り換えて通勤していました。宇品線は今では廃線になっています。朝一番の汽車に乗らなければ仕事に間に合わないので、毎日早起きして駅まで走って行きました。朝ご飯を食べる時間がなく帰りも遅いので、兄嫁が三食分の弁当を作ってくれて、汽車の中で食べたり、仲良くなった車掌さんにおむすびをあげたりしていました。広島から三次は遠く、帰りも汽車に乗り遅れると家に帰れなくなってしまうので、何度か発車した汽車を追い掛けたことがあります。車掌さんが走ってくる私に気付き、速度を落として待っていてくれて、拾い上げてもらいました。若いからできたことだと思います。

審査課では、切符の整理などの仕事をしていました。当時はもちろんパソコンや計算機は無く、指でソロバンをはじいて計算していました。やがて戦争が激しくなり、審査課は宇品町から上流川町の広島女学院高等女学校に疎開して、業務を続けました。私の職場は建物の二階で、学徒動員された女学院の生徒も働いていました。十代のかわいい女の子たちで、みんな鉢巻きを締めて仕事をしていました。

●八月六日
八月六日は暑い日でした。私はいつものように早起きして、駅まで走って行って汽車に乗り、広島駅からまた走って女学院の職場に着きました。千田町で働いていた下の妹の和子も、一緒に出掛けました。その日は広島駅に着くまでの間に警戒警報が出ましたが、着いてしばらくすると警報解除になったので、ほっとしていました。職場の二階の部屋と廊下の窓は開いており、「今日は天気いいね」と話していると、窓から飛行機が三機飛んでいるのが見えました。その飛行機はキラキラ光って、とてもきれいでした。少し飛行機を眺めて、窓際の席に座った次の瞬間、バンというものすごい衝撃がして、私は壁やガラス窓を突き破り、建物の外に投げ出されました。

一体何が起きたのか分かりませんでした。辺りは真っ黒な煙が立ち込め、どこからか「助けてー!」という声が聞こえました。けれども、誰の姿も見えません。みんな崩れた建物の下敷きになっていたのです。私は爆風で二階から飛ばされ、女学院の校庭の大きな木に当たったようでした。助けを呼ぶ声に「出ておいでー!」と叫ぶと、「出られんのじゃ」という返事がありました。私は、「うちが助けるけえ、待っていなさいよ」と声を掛けながら、物を持ち上げたり動かしたりして、下敷きになっていた女学院生徒の四竃さんと、三好さんを助け出しました。一緒に瓦礫を持ち上げて救助を手伝ってくれた人もいましたが、誰も彼もけがをしていて、元気な人はいませんでした。

私自身も両腕や背中が傷だらけになっていて、首の後ろにも、ひどい傷がありました。しかしそのときはけがの痛さや恐怖よりも、早く三次の家に帰りたいと思うばかりでした。 

私は二人を連れて、近くにいた鉄道局の伊藤さんと一緒に逃げることにしました。四竃さんはお父さんが牧師さんで、三次の奥にある塩町という所に行かれていると聞いていました。三好さんは牛田町にある早稲田神社の親戚の娘さんでした。逃げる途中、目にひどいけがをしていた三好さんが「目が痛い」と言って泣くので、私は「痛いことはない!」と叱って、引っ張って歩かせました。泣いてもどうにもならないので怒ったのですが、本当に痛かったのだろうと思います。四竃さんは頭を切っていて、骨が見えるほどの大けがをしていました。

私たちは京橋川の対岸を目指して歩き、常葉橋の所まで行くと、橋の欄干がみんなお辞儀をしているように倒れていました。街は家々が崩れて無くなって、ずっと遠くまで見渡せる状態でした。

饒津神社の前に来たとき、憲兵と出会いました。私は、「けがをしている二人に水か薬をあげてください」と頼みましたが、「民間にやるものはない」と冷たく断られました。私は腹が立って、「あんたは誰に金をもらっているんだ」と食ってかかり、憲兵とけんかになりました。こんな状況でも、軍隊は民間人には何も分けてくれないこともあったのです。

饒津神社の辺りは、他にも避難する人や、家族や知人を捜しに来た人がたくさんいました。私は広島駅の方へ向かう人に、四竃さんを汽車に乗せて、塩町へ連れていってくれるよう頼みました。伊藤さんともそこで別れ、それから三好さんを通りがかった牛田町の人に預けようとすると、「あんたも乗っていけ」と言われて大八車に乗せてもらい、一緒に早稲田神社へ行きました。

●救護所にて
早稲田神社は救護所になっており、大勢のけが人で足の踏み場もありませんでした。何とか神社の下の方の地面に寝かせてもらいましたが、私は背中や首の後ろのけがが痛くて、背中をつけることができないので、横向きやうつ伏せになっていました。その頃には気力もなく、治療もしてもらえないままただ寝ていることしかできませんでした。動けない人が多く、みんなその辺りで用を足していましたから、寝ていて雨が降ってきたと思ったら、男の人のおしっこだったということもありました。何日かして、場所があいたので神社の上の方に移りましたが、それまではずっと土の上に寝ていました。着ている物はボロボロになっており、ほとんど裸同然の状態で、傷口にはハエがたかり、ウジもわいていました。

●家族との再会
一週間ほど過ぎた頃、「井口眞佐子はおりますか」と、父が早稲田神社に捜しに来てくれました。自分の居場所を家族に知らせたいと思い、人に頼んで貼り紙を出してもらっていたのを見付け、来てくれたようです。父の井口泉はとても厳しい人でしたが、私を見て、泣いて喜んでいました。父でも泣くことがあるんだと思いました。父がおにぎりを持ってきてくれたので、周りの人にも分けてあげました。避難してからあまり物を食べていなかったので、とてもおいしかったことを覚えています。

千田町で被爆した下の妹の和子は、自力で三次まで帰り着いていました。私が帰ってこないので、父は「朝一緒に出たのに、どうしてお前だけ帰ってきたのか、どうして待っていてやらなかったのか」と、和子を怒ったそうです。そのときはまだ広島がどういう状態なのか、父には分からなかったのでしょう。それから父や嫁いでいた上の妹の高子が、何日も広島市内へ私を捜しに来てくれていました。父は広島に来て、「地獄へ来たんじゃ」と言っていました。

私は父と一緒に、三次へ帰りました。備後十日市駅で汽車を降りると、そこはお医者さんたちがテントを張っていて救護所になっており、そこでやっとけがを診てもらうことができました。

●終戦と被爆の影響
終戦は三次で、ラジオ放送を聞いて知りました。日本が戦争に負けたということに腹が立ち、悔しさを通り越して情けない気持ちになりました。みんなが朝夕関係なく勤労奉仕で働き、砲弾を磨いていたのは一体何のためだったのだろうと思いました。

三次に戻ってからは自宅で療養する日々でした。腕や背中、首にはガラスの破片がいくつも刺さっていて、それが皮膚の下に潜り込み化膿していました。ガラスを抜いてもらってから徐々に良くなっていきましたが、細かい破片もたくさん刺さっていて、長い間あお向けに寝ることができませんでした。被爆から何十年もたった今でも、抜ききれなかった破片が頭や背中の皮膚の下に残っているようで、時々違和感や痛みを感じます。

家に帰って十日目ぐらいの頃から、髪の毛が抜けるようになりました。くしでとかしただけで、パラパラと抜けていくのです。当時三次のいろいろな病院で診てもらっても、なぜ抜けるのか原因は分かりませんでした。やがて髪の毛はすっかり抜けてしまい、もうこのままなのだろうかと思っていましたが、翌年の春になった頃からまた少しずつ生えてきました。女性ですから、髪がちゃんと伸びるまでは、恥ずかしいのでずっと帽子をかぶっていました。

けがが治ってから、私は職場に復帰しました。しかし体調はあまり良くなく、三次から広島市内へ通うのはつらかったです。当時は食糧事情も悪かったのですが、兄嫁の実家が近かったので、ずいぶん助けられました。その後結婚し、娘が生まれたので仕事は辞めましたが、二人目の娘が生まれた後はまた勤めに出て、それからずっといろいろな仕事をして働き続けました。幸い病院にかかるような大きな病気にはなりませんでしたが、数年前に大腸癌になり、乳癌にもなって手術を受けました。

●平和への思い
私は今が一番幸せです。戦時中は食べるものも満足に無く、十五歳の女子生徒まで働かされていました。

原爆は、二度と落とされることがあってはなりません。戦争は絶対にしてはいけない、平和であるのが一番いいことです。そのことを、戦争を知らない若い人たちにも伝えたいと思います。

 

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