私は六人兄姉の末子。二〇一〇・一一・一〇長女「清子」が八五才で永眠したので、両親・兄姉に先立たれ一人になりました。いずれは来る別れとは思っていましたが、寂しい限りです。
私は当時、祇園小学校三年生、早朝校庭にいた処、突然の爆風で校舎の窓枠・ガラス等が吹飛びました。これが広島に落された初めての原子爆弾。生徒は、みんな自宅へ帰されました。自宅では、母親ヨシ子(七五才で没)、長女(清子 八五才で没)、次男(敏己 七八才で没)がおり、長女と次男は勤労動員でしたが、幸い休暇で自宅で助かりました。
父(勝 八四才で没)は勤務先の広島市役所本庁の地下で被爆しましたが、パンツ一枚で、手拭で顔をおおい、帰宅しました。三男(博行、崇徳中学校生、一四才で没)は勤労動員で作業中被爆し、全身ヤケドで九死に一生、自宅に気力で帰宅しました。父は母親と長女が一緒に母の実家、今の高陽町中深川へ、又次男と私は、三男を布団の綿で全身をくるみ、リヤカーに乗せて、上記中深川へ疎開し治療に当りました。後日次男から「文男は小さいのにリヤカーを押し乍ら、良く歩いて中深川まで行ったもんだ」と再三言われました。
国道沿いは都心からの被爆者や家族が、一生懸命それぞれの疎開先へ歩いて向っていました。ヤケドの人々は「水・水・・・」と叫び、正に生き地獄でした。
三男は全身ヤケドで、治療のかいなく、翌朝八月七日いきをひき取りました。
父は全身にガラスの破片が刺さり、家族全員でピンセットで抜き出すのに二週間位かかりました。ガラスの破片は皮膚の表面に自然に出てくるものです。
家族は不幸中の幸いで、被爆しても行方不明者がいなくて、疎開先の親せきのおじ・おばに助けられ、翌日から最低の生活は出来ました。私は疎開先の深川小学校で暫時転入し勉強することもできました。
現在は、近くに一〇〇万坪の規模の高陽団地が建設され一大住宅地になっており、なつかしいです。
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