本花瓶は落合家の店の棚に飾られていた物である。
昭和二十年(一九四五年)八月六日、午前八時十五分米空軍により原子爆弾が投下され約五七〇メートル上空において炸裂する。爆心地より約二キロ離れた落合家は倒壊し、間もなく猛火に包まれる。
翌七日朝、私は中国軍管区司令部から東練兵場に避難し一夜を明かして未だ暖かみの残る我が家の跡に呆然とたたずむ。
周囲には燃える物は一片として無く、ニュームの鍋は解けて一塊の固まりとなり、瓶の口はみな変形し、碁石の白石は貝殻のためはじけて姿を消し、黒石が白石のようになって残っている。
ポツンと立ち残る高さ一メートル位の金庫が目立つ。その金庫を見ると、両方の握りが高熱のため焼け落ちていた。その惨憺たる現場の中で、数日後花瓶が発見され、父の手により取り出された物である。
両親の言によると花瓶の赤色の部分は原爆投下後に着いた物であり、くぼみの跡もその時できたとのことである。周囲のあやめの彫り模様は描かれていたが、ケロイド(ちじれ)はなかったとのことで、その時の熱の高さをうかがい知ることができる。
尚、長崎の国際文化会館に飾られている小さい瓶のように、一見して完全な花瓶のように見受けられるが底部の何処からか微かに水漏れが見られる。又口部に一箇所小さなひび割れがあり、その箇所からも僅かに水漏れがある。然しよく棚の上に乗せられていたこの花瓶が姿こそ変われど完全な形で残ったことは、奇跡中の奇跡と考えられるべきではないであろうか。
秀明記
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