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「原子爆弾が投下された時の私」 
佐藤 金子(さとう かねこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所 広島市水主町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島県立広島第一高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和三年六月二八日私は、(父)片岡喬、(母)片岡スエの次女として生まれました。姉、私、弟二人、妹一人の五人兄弟でした。戦争は日に日に激しさをまして来るように感じていました。母は父と相談の上、小学校三年の弟と六歳の妹を連れて、福山の母の里につれて行きました。

母がいないときは、姉と私と中学生の弟と三人で夕食を作りました。夜は電球のまわりに黒い布をかけ、明かりが外にもれないように注意しながら、食事をしたり、勉強をしたりしていました。父はお仕事が忙しく、夜も遅く帰ることがたびたびでした。

原子爆弾が落とされた昭和二〇年八月六日の朝は、いつもと同じように静かな朝でした。母はその日の午後に福山にいる弟と妹の二人の所に行く予定で汽車の切符を買うために、家から出かけました。姉は市立女学校の生徒で、宇品の軍隊の方へ学徒動員として出かけて行きました。上の弟も中学生として動員されて、出かけて行きました。

しばらくして、母がひょっこり家に帰ってきましたので私はびっくりしました。母の話によりますと、切符を買うために駅で並んでいたら、後ろの男性の方から声を掛けられ「奥さん、用事があったら家でしてきてください。僕たちは帰っても用事がないからここにいて順番をとっていてあげるから」と言ってくださったので、喜んで帰ってきたということで玄関に着いたばかりでした。

母からそんな話を離れた別の部屋で聞いている最中に、突然、住んでいた二階建ての建物が一瞬のうちに崩れてしまいました。そして、土煙などで暗くなり、なんにも見えなくなりました。母の声もほとんど聞こえませんでした。私は何がなんだかさっぱりわからない状態でした。

しばらくたってからのことでしょうか、私は頭の上で、木材を動かすかすかな音が聞こえてきました。「あっ父だ!」と思って、思いっきり大きな声で父を呼びました。父は私の名前を呼びながら、一生懸命に私のまわりから一本一本の木材を取り除きました。そして、やっと私は重なり合った木材の中から抜け出ることができました。自分をよく見ると私の右肩あたりは血だらけでした。「母はどこにいるの?」と思った瞬間、父は大声で「隣の家が燃え出したから、早くここから出なさい!」「住吉神社まで早く逃げなさい!」と叫びました。私も大声で「行ってるから早く来てよ、父さん!」と叫びました。しばらくして、やっと住吉神社で父と会うことが出来ました。

父は母のことは一言も口にしませんでした。父の落胆振りから母を救うことが出来なかったのだと思うと改めて尋ねることが出来ませんでした。

神社のまわりにあるお堀の中には、たくさんの人々が顔を水につけたままで亡くなられていて言葉も出ませんでした。父と二人で、そこに立ちつくしあふれる涙を拭くこともしないで水面一帯を呆然と眺め続けていました。

やっと父が宇品の姉のところに行こうといいました。神社一帯の道路は人が通れる状態ではなかったので、石垣下を行こうと父が言いましたので川岸の水際に沿って歩きました。

歩いていてしばらくすると、刑務所のところの階段が目に入りましたので、そこをあがり、刑務所の高い壁にそって南大橋に向かって歩きました。そのとき県立女学校の同級生七~八人に出会いました。みんなで抱き合って無事を喜びそして泣きながら再会を約束して分かれました。

父と二人で宇品まで歩いて行って姉の学校の生徒さんとお会いすることが出来ました。姉も兵隊さんのお手伝いをしていましたが、私の顔を見て飛んできてとても喜んでくれましたが、私が母の話をしましたら、姉は泣き崩れ私も一緒に泣くばかりでした。

しばらくして父は、中学生の弟を探しに行くと言って出かけましたが、日暮れになっても二人とも帰ってきませんので姉と二人で心配していましたら、弟が頭に白い包帯をぐるぐる巻きにして帰ってきました。よく聞いてみると屋根瓦が頭の上に落ちてきたとき怪我をしたそうです。とにかく命あってのものだねだかねと言ってみんながほっとしました。

再び自宅の近辺に戻って家を探しましたが家はすべて灰になっていました。あまりのショックで呆然と焼け跡を見つめるばかりでした。また、自宅の近くにある住吉神社の下方の川岸は水が引いていて、その水際のところには無数の人々が顔を水面につけたままで亡くなられていました。その死体の多さに「どうしてこんなことに!」と頭が変になりそうでした。

現在でも目を閉じれば約六五年前の悲惨な出来事や優しかった母の姿が浮かんできて大変悲しくなります。優しかった母の日ごろの生活ぶりも、走馬灯のように頭に浮かんできます。母は時間を見つけては、庚午の借りた畑に出かけて行って、いろいろな野菜を作っていました。収穫時には、少しばかりの野菜をリヤカーに積んで持ち帰りますが、その野菜をほとんど近所の方々に配ってしまいます。「母ちゃん!そんなに配ると家のは何にもないよ」と私たち子供が口々に不満を言うと母は「今日食べるものが何にもない人もいるからね、今日は我慢しよう、でも畑にまだあるので、次は家で食べようね」とよく言いました。近所で病人が出たとなると、何か食べ物を持って、すぐに病人宅に駆けつけ、遅くまで看病する母でした。

本当に他人様の面倒を自分のことのように、よく気がつき、夢中で動き回ってたくさんの方々にやさしい手を差し出している母でした。当時を振り返りますと、母は私たち子供を怒るようなことは、ほとんどありませんでした。しかし、母は日々の生活を通じて人の生き方を教えてくれていたように思います。それにしても、私たち子供に言い残したいことがあったでしょうに、あの日に一言も言い残せず旅立った母も、さぞかし残念だったでしょう。私も母とあのような別れ方をして、本当に残念でなりません。六五年たった今でも、あの時、崩れた家の下敷きになりほとんど即死状態だった母のことを思い出しますと涙が止まらず大変悲しくなります。でも、本当に優しかった母のことですから今でも私たち家族を見守り続けていると信じています。

このような不幸を体験した私たちは、これからも平和を求め続けます。そして、戦争は絶対にしてはいけないと心に誓っている今日です。
                                                     以上

 

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