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被爆について思うこと 
小山 節子(こやま せつこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

投下の翌朝より広島市内にトラックで移動。ドーム前の路上で下車。業務の指示を受けて連日7日間救護活動に従事しました。

投下された時刻には呉市広町の自宅で、出勤直前で居ました。

爆発音とキノコ雲を望見。原爆とは夢想もせず「海田市の火薬庫の事故では…?」と、いう世評でした。

下車したドーム前の路上周辺には、黒焦げになった遺体が丁度デパートの「マネキン」が倒れているという(しかも、真黒のマネキンが)状態で、無数の遺体が折り重なり、川面にも同様の遺体が浮かび、真夏の太陽の下で、名状に苦しむ現状でした。今、目を閉じればありありと浮かぶ惨状と、筆舌に現せないショックが胸をしめつけます。近くの学校の半壊の校舎内に案内されました。そこはドーム付近の死の世界とは異なり、多くの被爆により負傷した人々の地獄絵そのままの有り様にしばらくは何から手をつければよいのか…「ショック」状態でした。これという薬品も、衛生材料もなく、ギラギラする真夏の太陽にさらけ出された火傷は「ヒリピリッ…」と激痛を与えるばかり。陽をさける「ガーゼ」も包帯もありません…。手当てを求める人々の名状しがたいうめきと訴えと、泣き声が、充満した現場です。何の効果がある品物か理解に苦しみましたが、1斗缶に入った黄色い油性の液を、患部に塗布してあげるのが、唯一の手当てでした…。

一方、近くから召集された消防団員や市民の方々が、戸板に乗せて運んでくる遺体はすでに腐敗が始まり膨張して、不安定な戸板の上で、今にも転落しそうな状態で運ばれて来ます。表皮は真黒に焦げ、チョッとふれると「ズル…」とむけて一層、悲惨です。名前も住所も性別も不明、かろうじて判別可能な有り様で、校庭の隅に掘られた穴に運ばれ焼却されていました。

教室の床上では重症の方々、運送されたが死亡してしまった方々が所せましと置かれ、ここでも「水が欲しい…」「痛い助けて」「早く手当てを…」とか、必死な声で求めていますが「ごめんね、少し待ってね…今すぐ持って来ますから…」と、一寸延ばしの空しい答えしか出せない辛さでいっぱいです。「何をしたというのでしょうか…?」戦争の持つ1にも2にも許し難い悪を痛感する連日でした。私が看護の道を選んだ結果の体験ですが、その中でも原爆は最たる悪だと思います。
 
乱筆になってしまいました。ごめんなさい。

*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
  

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