被爆から六十年、人生にとっては一つの区切りとなる経過年月である。1945年八月十五日敗戦の日となった当夜、私共動員学徒は集団で呉市から帰郷の途上、見渡す限り焦土と化した広島市松原町の駅舎内外で一夜を過ごしていた。
被爆十日後、駅舎周辺ではまだまだ人も物にも生々しい惨状が残っていた。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで…」天皇の放送があってから八時間、暑い一日が暮れた。広島の人々は、どのように思い感じていただろうか……。
やり場のない高ぶる気持ちを抱く、多感な十六才の少年にこの光景は強烈に胸の奥深くに染みこんだ。
今年十月四、五日と関東、関西、米子に離れ住む、同期生十人が相集い、広島、呉へ慰霊の旅をした。
平和公園では慰霊碑に合掌、彼岸での安らぎを念じながら、未だ心無い国々の核開発に怒りを覚え空しさを感じたものである。
この日は偶然か、資料館内に外国人が多く見られた。老人、実年、若者と年代が異なり服装もバラバラ。団体で来館したようには見受けられなかった。関心の高さに驚き、この人達がどのように史実を捉えるかわからないが、ノーモア広島へ繋がる働きの一助になることを願う気持ちだった。
今回の旅で、初めて国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪ね、若くしてガンで死去した仲間の写真を見て在りし日を偲んだ。又、十年前に記した私の拙文が保存されていたのには驚きであった。
コピーを作り、わざわざお送り頂いた祈念館のスタッフのご親切が大変に有難く感謝しています。
平成元年に被爆者手帳交付を受けた私共クラスの三十四人のうち、十九人が生き残っており、七十七才の今、病と付き合いながら自覚を新たにして「まず健康」と各々が努めています。
各関係機関の皆様のご配慮を有難く思い感謝しております。
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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