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被爆について思うこと 
中村 政子(なかむら まさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 0歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 2005年 
被爆場所  
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

生後5ヶ月で被爆。当時の生き地獄のような惨事を書く事は出来ませんが、亡母、亡父、本、写真、テレビ等で知らされる戦争を知らない世代に入る私達被爆者の方も多い事と思います。知って頂きたい事は、当事者でありながら惨事を語る事の出来ない私達ですが、幸い生き残る事の出来た人々のその後の悲惨な戦後の生活です。

戦後60年も過ぎようとしておりますが、私の弟は昭和25年8月、被爆した父と母から北海道に来てから生まれた待望の長男としてこの世に誕生しました。生まれた時から弱い弟で病院と縁の切れる事のない子でした。歩く事も出来ず、呼吸も考える能力を持ちながら上手に話をする事も、内臓も弱く奇形でした。尿も体(腹)に穴をあけ管を通しての排尿、弱視、背骨もS字に曲がりかつ内臓の方まで拗(ねじ)れ込み、1つの肺が潰されていました。足の長さも左、右が15cm程違い、食事も家族中で弟の食事が気管に入らないように祈るように見守るしかありませんでした。食べ物が気管に入り呼吸が出来なくなり顔色が変わってくるのです。背中を摩(さす)ったり叩いたりと、家族中の祈るような心で思いで見守るしかありませんでした。どんなに辛い時も、悲しい時も苦しい時もです。

父も母も原爆症と戦いながら亡くなりました。障害を持って生まれて来た弟でしたが、父も母も生きている事の幸せを喜びを弟に感じてもらおうと一生懸命看病をしていました。20才の短い生涯でした。被爆の遺伝による後遺症を一身に引き受けて生まれて来たような弟でした。その弟が亡くなる前に「生きているって素晴らしい事だね!!」と笑って言ってくれました。その言葉の重さを今も私は心にしっかりと置かずにはおられません。

これから科学もすべての専門学が進歩発展して行く事と思いますが、その科学を正義と言う名のもとに、その国又は少数の人達の欲望の為に大量殺人の道具として使用されるとしたなら、それが許される世の中になったなら、これから地球上の生物又人々、国民、民族、難民、孤児、障害児、異常児、そしてその家族、子孫を残すに必要な遺伝子までも壊し変えてしまう様を見続けなければならないのです。

人として生まれ人として生きて行くことすら出来ない心と体になってしまった子供達に私達は責任をおしつけるのでしょうか。又将来生まれて来る子供と異常児に罪の償いをさせようとするのでしょうか。戦争での後遺症に苦しみを背負わされた人々は、お金で済む事ではないのです。その人の一生生きるすべてを奪ってしまう罪の深さ、恐ろしさ、将来人間はどちらの方向に向かおうとしているのでしょうか。

平和とはただの合言葉だけの意味なのでしょうか。人類は皆同じ痛み、苦しみを感じ合えるはず。言葉、習慣、気候、風土の違いがあるからこそ国々(民族)としての進化、発展もあるのではと思います。認め合いたい、助けられたり、助け合いたい、皆んな皆んな弱いのですから。一人一人が愛の心のつなぎ手でありたい。その為にも、戦争と言う殺し合いによる人類の罪を重く考えていかなければならないと思います。
 
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。

 ※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。
  

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