日米の谷間の戦争の落し子と我々在米被爆者も日本より医師団もいらして下さる様になり来て下さるという事のみで我々は見捨てられてない、と心の安らぎをいだく様になり在米被爆者も原爆手帳頂いてれば訪日しての医療費は援助もして下すったり数年前から健康手当も交付して頂く道も開かれ、私自身結婚して健康上働かずで医療保険は個人で加入となりましたが保険会社より被爆者という事で加入も拒否されて以来医療費は全額自費由長期治療の場合は至急日本の実家に幼い子も連れて帰り実家が医療費も援助してくれ常に約半年滞在し体力も回復して一人残してた主人の許に帰る事をくり返してた私由。日本からの愛の手に又米国も65才となればメディケアの恩典があり医療費全額支払ってた私はたとえ満足する援助でなくても心より感謝してます。
在米被爆者の協会も1971年南加州で設立し非営利公認団体となりましたが、政治的運動に一切関係しない平和教育をひろめる事業に語学のハンデーあれども米市民、永住者で核戦争体験した身由、自分の原爆体験をマスコミに語りそれから再びこの様な体験者のいない様に、市民の力で平和を守る事を語り続け特に若き世代にフォーカスを向け学校等にスピーチのチャンスを頂く呼びかけをし声をかけて下さるとたとえ遠方であっても体力の続くかぎり出かけてます。語学のハンデーの身なれど私が語る事は心から語ってるから皆よく理解すとはげまされてます。
私の語る事を聞いて「ごめんなさい。ゆるして下さい。」という市民達も沢山います。そんな悲惨な事は貴女のスピーチを聞く迄は知りませんでした。再びこの様な事なき様、貴女と共にがんばります、といって下さいます。
本年2005年は原爆60周年由こちらでも原爆問題にフォーカスを向けて方々から、遠方よりはTelのインタビューや南加州内のTV局、新聞社等からも取材、TV番組でのインタビュー依頼があり年々とこの様なインタビューもプレッシャーのかかる様なクエスチョンはなくなり事実をすんなりとPRされる様になってます。
十ヶ月も先の来春東部のある大学より今迄あまり原爆に関するインフォーメーションなき大学だったので私に来て語ってほしいという連絡を受け体力があるかぎりよろこんで行きますと伝えました。
1974年原爆写真パネルを我々協会に当時の荒木広島市長より寄贈して頂き早速方々のライブラリー、スクールで展示を申込みましたが返事がない、又は丁重にことわられた時代でしたが、徐々に公開もさせて頂ける様になりスピーチに出かける時常に持参してます。在米被爆者ですべき事は平和教育をひろめる事業。がんばってます。命あるかぎりすべき任務です。
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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