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四年生 めぐみちゃんへ 
大川 節(おおかわ みさお) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1990年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島師範学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

 
1.日中戦争
 
・1937年7月支那事変(日中戦争)が始まったのは、私が5年生の時でした。支那人は悪い。日本は正しい戦争をしているから勝てる、と思いこまされていました。

南京という町を占領した時は、村中を旗行列をして祝いました。その時もらったお菓子の袋に、南京豆が一つ入っていました。

本当は多くの人を(戦争に関係のない人や子どもまで)殺したのですが、そのことは知らされませんでした。
子どもにも大人にも「ほしがりません勝つまでは―」と、みんな思わされていました。
 
・修身の勉強では「木口小平(きぐちこへい)」というのがあって、「木口小平は死んでも口からラッパを離しませんでした。」という文でした。死んでもさらに進軍ラッパを吹く軍人魂。

それは木口小平のような人間になりなさいということで、だんだん天皇のために戦死することを恐れない子どもがつくられていきました。(1年生のとき)
 
・学校へ行く時は、学区ごとに並んで登校すると、奉安殿(ほうあんでん)(天皇の写真がおさめてある建物)の前に行き、最敬礼(両手をすねぼうずの下までつける礼)をしなければ教室には入れませんでした。教室の正面にはどの教室にも二重橋の写真があり、その写真に最敬礼をして出入りさせられました。天皇のために生き、天皇のために死ねと教えられました。
 
・召集
日中戦争が始まると日本国中は戦争に協力しない者は非国民と言われ、それでも反対すると牢屋に連れて行かれました。

赤紙という召集令状(何日の何時までにどこの軍隊に入隊せよ)が二十才以上の男子に来るようになりました。召集は絶対命令で自分の都合などは許されませんでした。
 
・出征兵士の見送り
軍隊へ入隊する人は、国に命を捧げて生きては帰らない覚悟で行きます。出征する人があると、小学生から大人まで毎日でも村の駅まで行ってお別れの式をして、日の丸の小旗をふりながら「ばんざい」「ばんざい」といって見送りました。学校の授業はやめて見送りに行きました。
 
・神社の参拝
神様のお祭りには授業をやめてお参りに行きました。そして出征兵士の武運長久を祈りました。

祈願祭というのもあって、とにかく神様にお願いすれば戦争に勝つし、死なずに元気で戦争ができると信じていました。

太平洋戦争が始まった1941年12月8日からは、8日を大詔奉載日(たいしょうほうたいび)と定められて毎月8日には戦争に勝つことを祈るために参拝しました。
 
2.太平洋戦争
 
・1941年12月8日、日本はアメリカと戦争を始めました。だんだん大変な暮らしになってきました。
毎月8日には神社へ参って戦争に勝つことを祈りました。

中国で戦死された人の遺骨が帰ってくるようになり、遺族の家が増えてきました。学校で慰霊祭があり、忠魂碑(ちゅうこんひ)が運動場に建てられました。遺族の家は国のために手がらをたてたすばらしい立派な家だとほめたたえられました。

戦争が激しくなり、働きざかりの男の人は次々に召集されたり、戦争に使うものを作る工場に出されて、年寄りと女の人と子どもしか残っていませんから、子どもも働きました。

農繁期には田植え休み、稲刈り休みが十日位あり、仕事の手伝いや子守り、茶わかし、ご飯の用意など、なんでも頑張りました。
学校の運動場にも芋や南瓜を作りました。それでも作ったものはほとんど国に供出して、ひもじい思いをさせられました。
 
・家の生活
戦争が激しくなると食べ物はなくなり、配給でしか買えなくなりました。長い列を作って半日がかりで並んで待って、やっと冷凍の芋が一切れもらえたり、枯れたような野菜が少しもらえるくらいでした。

お米も麦もなく、大豆かすやマイロという黒い粉が配給になり、蒸しパンにしたりお粥にしたりしました。大豆かすは少しの米にまぜて黄色いつぶつぶばかりのご飯にして食べました。

お粥がお椀に一杯とトマト一切れがおかずでも、食べられれば大喜びをしていました。肉や魚などは全然なく、時たま牛の腸など臓物がおかずに出ると大ごちそうでした。

芋の葉や露草、たこ草など野原にある草や木の葉など食べられるものは何でも食べました。イナゴの佃煮は大ごちそうでした。

農家でない家の人は、着物や家にある大切な物を持って農家に行って、米や麦や小豆、大豆、野菜などの食べ物と物々交換をして生きていました。

いつも腹いっぱい食べてみたいと思うばかりでした。

着る物もはき物も配給でした。みんな藁(わら)の草履(ぞうり)をはいて、靴は配給で当たれば買えましたがめったに当たりませんでした。服もモンペや国民服という服に決められ、赤い色や派手な服を着ていると「非国民」と言われました。
 
・空襲が多くなる
 1945年の4月頃からは、アメリカ軍の飛行機が爆弾を投下する空襲の回数もだんだん多くなってきました。

警戒警報になると急いで大切なものだけ持って防空壕に避難します。防空壕といっても運動場の隅に掘った穴の上に木や松の枝を置いた所で、下は水がたまっています。その中にしゃがんで飛行機が通り過ぎるのを祈りながらじっとしていました。

4月2日呉市が空襲されました。その時に飛行機から落とされる焼夷弾が三原から見えました。四国の町に落とされる時も見えました。

飛行機の音が暗い夜の中でいつまでも気味悪く、いつ爆弾が落ちてくるかも分からないので、怖くて怖くておびえきっていました。

こんなことが毎晩のように続き、一晩中寝ないで建物を守ったり、防空壕の中で過ごしたりしました。寝る時にはすぐ逃げられるように、靴も服も持って逃げる物(袋に入れておく)も全部枕もとに置いて寝ました。

学校の勉強は出来なくなり、食料を作る作業をしたり、戦争に使うものを作りに工場へ行かされたり、土曜日も日曜日もなく(休みの日はない)「月月火水木金金」といってみんな働かされました。
 
・竹やり訓練
隣組や学校では、空襲に備えてバケツリレーで消火する訓練から、竹やり訓練に変わっていきました。

アメリカ軍の上陸にそなえて、まず相手をひと突きし、次に自分を刺すというものでした。その突き方を藁(わら)人形を相手に教えられました。戦争も終りの頃のことでしたから、切羽詰まった中で殺人の訓練をさせられたのです。
 
3.8月6日 8時15分
私はその日の朝、今の付属小学校の裏山で防空壕を掘っていました。
「ピカッ。」と突然光りました。「何の光?」と言いながら作業を続けました。

夕方になって、「広島は一里四方焼野が原じゃ。」(本当は一里(4km)四方ではなかったのです。)「たくさんの人が三原へ帰って来ようてじゃ、着物はボロボロで髪の毛はぬけとる。」と、うわさが広がりました。

そして、「ピカドン。」が落ちたと、だんだん大騒ぎになりました。

寮にいましたので、広島に家のある友だちはすぐ帰ることになり、みんなこれからどうなるのか不安で塗りつぶされました。

「アメリカ軍が上陸して来たらみんな殺される」といううわさも広がりました。

戦争に負けるのか、これからどうなるのか、心では心配でも「絶対日本は勝つ」と信じて、不安な気持ちは言うことはできませんでした。
 
4.終戦の日 8月15日
8月15日「体育館に集まれ。」ということで天皇の放送があることを知りました。(玉音放送といいました)

誰もが自分の耳を疑いました。戦争は終りました。ついに神風などが吹くこともなく勝つこともなく無条件降伏でした。
 
「ピカドン」「新型爆弾」「広島は全滅」何がどうなっていくかのかわからない中で、広島へ救援に行くことになり、健康な者が12名、16日の朝三原発の汽車で広島市に入りました。

焼けただれた電車がそのままありました。まだブスブスと街中が灰になったまま燃えていました。

焼けただれた臭いでした。見渡す限り焼けていました。

焼け残った学校の建物の中には、やけどをして声も出せない多くの人達がうめきながら治療を待っていました。私たちは炊き出しをしました。にぎり飯や天ぷらを毎日たくさん作りました。

やけどをした人には白いメリケン粉をねったような薬をつけてあげるのですが、ひどいやけどでどうすることもできませんでした。

夜は教室に服のまま寝ました。すぐ前の川の土手では、毎晩死んだ人を焼いていました。煙の臭いを今も悲しく思い出します。

人々はあてもなくあちこち家族を探したり、軍隊の人たちは軍隊で使っていた毛布などを分けて、家に帰る用意をしながら、これから先の不安をぶちまけていました。

毎日の仕事に疲れたのか、倒れる者が次々に出だしました。(まだおそろしい放射能のことは知りませんでした)それと「アメリカ軍が上陸してくる。」という、うわさが伝わって来ましたので、急いで三原に帰ることになりました。二週間、朝から夜遅くまでがんばりました。

どの汽車も鈴なりのような人でしたが、石炭の積んである貨車に乗って、やっとの思いで三原に帰りました。

広島にはもう二度と草木は生えないと言われていました。

死の街広島のあの時の様子は、今もはっきりと覚えています。
 
5.あの日から45年目の夏を迎えました。
 町にはネオンサインが光り輝き、広島の町も生き返りました。
 私が小学校に入学した頃歌った歌で一番よく覚えているのは
 
 肩を並べて 兄さんと
 今日も学校に行けるのは
 兵隊さんの おかげです
 お国のために
 お国のために戦った
 兵隊さんの おかげです
 
 ※二番の終わりは
  お国のために
  お国のために 戦死した
  兵隊さんの おかげです
 
と、戦争の歌を歌っていました。
そして18才の青春の真っ只中まで、何の矛盾もなく 
「ほしがりません 勝つまでは」
「一億玉砕」
「月月火水木金金」
で過ごしました。
 
もう二度と、誰か権力を持つ者に、思い通りに一つにされるようなことがあってはならないと思います。

いろいろな考えを出し合って、本当にすばらしい世の中をつくるために、力を出し合い、はげまし合い、助け合っていくことが、すばらしい日本をつくるのだと思います。
 
                                              1990年8月1日
                                               おばあちゃんより
 
4年生の
めぐみちゃんへ

*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。

※原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。




 
 

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