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被爆体験について 
小玉 矩子(こだま のりこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 高等女学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
 
私は女学校の4年生の時、学徒動員で雨覆いを縫う軍需工場で働いておりました。朝のあいさつが済んだ途端にピカッと強い光がさし、誰かが焼夷弾とか、照明弾とか叫んで真っ暗になり、息もつまる感じでした。爆風で死亡した友人もいました。でも火事で道はふさがれ家に帰れず一晩は残った家に泊めてもらい、やっと家に帰れば爆風で一階はなくなり、二階が柱だけ一階にたっており、母は下敷きで即死。父は腕にやけど、妹は疎開の跡片付けで全身やけどで泳ぎたいの言葉を残して死亡。やがて父も血便が続いて原爆症で死亡。そこへ父の妹が家屋の下敷きからのがれて私を見つけてくれた。

それから二人の生活が始まり、田舎に疎開させていた着物類を売ったり野菜と交換してもらったり、住居は義姉の嫁入り先に少しおいてもらい、落ち着き先を探しては引っ越し。やがて叔母も死亡。いよいよ一人になって、何度か本川の中島に流れついた丸太の上に座っては死を考え、ある時は映画館で一日中座って時の流れを待ったのです。

住み込みで働く仕事しか出来ず(親も保証人もおらず)まずい食事に長い労働時間に肝臓をいため、入退院をくりかえし、でも自分一人の事をすればよいのだと思い、どうにか生きて来ました。

でも家族3人は帰らず自然と無口になり、暗い人生をとぼとぼと歩いて、とても陽気に暮らす事はないのです。何かにつけ思い出すのは家族の事で、50年たった現在も忘れることはありません。

先日も同窓会がありましたが、日の丸の鉢巻きにモンペ姿で軍歌にあわせておどったり、50年前の事は忘れてはならない出来事なのです。新たな涙と共に身を引きしめるのです。でも人間は丈夫に出来ているものだと、残り少ない人生を大切に体をいたわりつつ過ごしたいと思います。

私達もやがて死を迎えますが、その後科学はどんどん発達するでしょうが、戦争には使うべきではありません。平和をお祈りします。

*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
  

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