原爆が落ちた当日、三菱機械製作所(南観音)の湯沸室へお茶を取りに友達二人で行っていた所、すごい爆音が響きびっくりして机の下へしゃがむ。しばらくして事務室に帰って見ると五十人位いた人がひとりもいない。カーテンガラスが散乱し窓がぶらさがり天井が落ち、中に入られないので、二人で防空壕に入りに行く。途中何人も何人もの人が肉がたれ、じゃがいもの皮のように皮膚がぶらさがり、衣服はぼろぼろ、裸の人達が診療所を目指しありの行列のように続く。二人で防空壕に入ったその後のきのこ雲のこと、黒い雨が降ったことなど外の様子は一切わからない。壕の中で一夜を二人で過ごす。
夜が明けて急いで家路(広瀬町)に着く。電車道(江波線)の黒こげの人、水槽に浮かんでいる人、馬や犬の死骸、くすぶっている建物、立木、焼けた電車、死骸がいたる所に散乱し、まさに死の町だった。恐しさに身ぶるいしつつ電車道をわき目もふらず走る。その間、人間には出会わない。これが本当の地獄だと思った。広瀬町の家に帰ると家族はみんな無事だったけれど寝る家もなく食料、衣服もない日が続く。やっと、焼けなかった裏の部屋を修理し住むことになる悲しい日々が続く。見渡す限り水、水と叫ぶ人、人、人。男か女かもわからない叫びが止まると死んでおられる。手を合わせて祈る日が続く。それから何日たったかわからないが兵隊さんが来られ、やけどの人々はむしろに寝かされる。そのやけどに蝿が止まり、うじも生み、うようよと皮膚の上をはっている。朝、様子を見に行ってあげるともう死んでおられる。
川原では死骸を山のように積まれて焼かれる毎日が続く。悲惨な原爆、恐ろしい原爆と何度言ったことか。仲よくしていた近所のおばさんおじさんも、髪にくしを入れるとぐさっととれたり歯ぐきが出血したりして、つぎつぎと亡くなっていかれた。悲しい涙が止まらない、止まらないと叫んだ。私の家の庭の防空壕も知らない人の死骸でいっぱいになった。これではいけない、「広島にはもう草木もはえない」という言葉が出だすようになったので、父が子どもだけでも知った人(志和口)に預けようと言うことになり田舎と広瀬町を往復していた。
こんな悲惨なことをあまり話したくなかった。でも今では話さなければいけないという気持ちでいっぱいです。
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。
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