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被爆時の記憶 
稲垣 和代(いながき かずよ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2026年 
被爆場所 広島市上天満町【現:広島市西区】 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は世界で初めて核攻撃を受けた広島市内の体験をしています。原爆投下で何が起こったのか、私と家族の体験を話します。
 
当時の私の家族は、母(ウメノ)が1944年1月に肺結核で亡くなっており、父の強一44歳(大工)、兄の喜一16歳(夜学に通う)、私長女で和代は14歳、次女の吉恵9歳、三女の啓子6歳、弟の進3歳の6人家族。自宅は爆心地から1.5㎞程の上天満町にありました。

その日(8月6日)、父と兄は8時頃二人で建物疎開作業に出かけました。まもなく空襲警報のサイレンが鳴り、暫くして警戒警報になり自宅にいた私たち3人(和代、啓子、進)はほっとしました(次女の吉恵は学童疎開中で迎えに行けずにいました)。弟の進が泣くので3人で歌を歌い始めました。

ピカッと目の眩むような閃光が走りました。あたり一面真っ暗になり何も見えません。一緒にいた妹の声が遠くに聞こえます。だんだんと明るくなり、私と弟は崩れた家のがれきの下敷きになり、私は首から下は動かすことができず、「私はここにいる」と叫ぶと、妹が一歩づつ私のほうに来ました。妹が屋根瓦を1枚づつ取り除いてくれました。両手が自由になり弟を助け出すが、私は家の鴨居が足に落ちて出ることができない。私は大きな声で叫ぶと見知らぬ人が来てくれましたが「どうすることもできない」と行ってしまいました。しばらくして家の裏手のほうから煙が流れてきました。2人の妹弟は立ちすくむだけで3人とも焼け死ぬかと思いからだが震えました。

すると兄喜一が帰って来てのこぎりを探しはじめ、父強一も帰ってきました。2人で私を助け出してくれました。家の裏手の方から火が見えてきたので、父が弟を背負い、私は弟をおぶる紐だけを持って逃げました。兄は妹を連れて、大通りへ出ると大勢の人が道いっぱいに人を押しながら歩いていました。人々の身体は赤く焼けただれ、肩甲骨の骨が出て血が流れている人、やけどで皮膚がぶら下がってひいひい言いながら人が逃げておりました。人の世の出来事とは思えない無残な光景でした。

橋のところ来たら父が弟をおぶって欲しいと言いましたが、私は腰が痛くてできず、兄がおぶりました。その時父の身体半身がやけどで皮膚が剥けているのを見て、初めて涙が出ました。父と兄は爆心地の方に向かって歩いていたのです。兄は家の軒下の影、父は身体半分朝日に当たっていたので半身大やけどだったのを知りました。

家族で西の山の方に逃げて竹藪に着き大勢の人がいました。すると大粒の黒い雨が降ってきました。父が雨が体にあたり痛いと言います。見ると20メートルぐらい先のところに家があり、父が歩けると言うので行くと家は崩れていて人はいません。そこにあった1枚の布団を出して父に掛けてあげました。皆で水を飲みました。雨が上がり竹藪に戻り市内を見下ろすと火の海でした。一緒に来た肩甲骨のけが人は死んでいました。

夜になるとB29が低く飛んできます。とても怖かった。男の人が麻の蚊帳をもって来てくれて、見つかると危ないからと蚊帳の中に入れてもらい三夜過ごしました。

一人また一人と亡くなっていきます。水、水と言って亡くなっていきます。夜になると市内は真っ赤に燃えて見えました。

私たち家族は自宅の焼け跡に帰ろうとしますが、途中の木橋が焼け落ちていました。農家の人たちが近道で渡る幅1メートル程の一本橋を教えてくれましたが、下を見て歩かないと川に落ちそうでしたが、大勢の死体が浮いているのが分かり身がすくみました。怖くて渡れないでいると兄に叱られながら家族で渡りました。裸足なので地面が熱く思うように歩くことができませんでしたが、厚生館という焼き場まで戻ると空き地に三輪自動車があった。兄がトタン3枚集めてきました。焼け残った木の棒を立てて車を背に5人でそこで過ごしました。

8月11日19時頃に、父はやけどがひどかったのでトラックで可部(かべ)のお寺に収容してもらいました。そのお寺は重傷者の臨時手当所みたいなところでした。兄は翌日朝早く父のいる寺に出かけました。食べるものもお金もなく裸足で。お寺に着いたのは11時頃、父は30分ぐらい前に亡くなっていたと兄から聞きました。側にいた人達が、「子供、子供」と言いながら亡くなったとのことです。その日の夜遅くに兄が骨になった父を抱いて帰って来ました。今思い出して、涙ながらに書いています。

兄は13日の朝、母のいとこが本地(ほんじ)に住んでおり、助けを求めて歩いて訪ねて行きました。着いたのは夜になりました。いとこの冨田家でおなか一杯食べたそうです。一夜泊り14日にこの叔父と二人で自転車で帰ってきました。

兄は私達3人を横川のバス亭からバスに乗せ、本地の冨田家に向かわせました。2人も自転車で本地に戻りました。
兄は15日に一人で自宅の焼け跡へ戻りました、皆裸足なので「藁草履の作り方を覚えてくれ」と言い残し出ていきました。

8月28日になって、兄が3人を迎えに本地の冨田家に戻って来ました。一夜過ごしたその朝、兄の髪の毛がごっそり抜け落ちていました。私はびっくりして本地の叔父に話し、病院で診てもらったら、栄養失調との事。しかし兄は午後のバスで市内に帰りたいと言い、叔父の止めるのも聞かず病院近くから4人でバスで戻りました。バスの中で体調が悪くて立っていられません。座り込みました。終点の横川駅に着き私の肩にすがりながらようやく自分の建てた上天満町のバラックに着きました。この2週間で兄は自宅のあった上天満町に、拾い集めたものでバラックの家を建ててくれていたのです。畳もあり囲炉裏もありました。

兄は戸を開けて倒れこみました。そのまま立ち上がることができなかった。水しか飲めず体に紫色の斑点が現れて意識がなくなり、下腹部から紫色と血が混じった汚物をくだしました。再び良くならず、兄はうわごとに家族の心配をしていた。9月2日に亡くなりました。(この時は兄が被爆が原因で亡くなったとはわかりませんでした)

この時私は悲しみの深さに涙も出ませんでした。疎開していた母の兄夫婦が前の晩に訪ねてきてくれており、焼け野原の空き地で自分たちで兄を火葬しました。

ひと月ほど経って学童疎開していた妹の吉恵が戻ってきました。私たち4人は戦争孤児になり、涙です。私たち4人は子供たちだけで1年ほど兄喜一が命がけでやっとの思いで建てたバラックで過ごしました。ほんとうに食べるものがなく大変でした。
私たち残された4人は兄の建てた心のこもったバラックですごし、周りにいた大人の人々に助けられました。兄の頑張りに、心からありがとう。

その後4人はそれぞれ親戚をたより、離ればなれになりながら何とか生きてきました。

私78歳で肺がんになる。妹啓子も87歳で肺がんになる。弟進は82歳で白血病発症し2カ月で亡くなりました。妹吉恵は広島市内に父が残した土地(舟入川口町)に住んでおります。

戦争は二度としてはいけない。父や兄がなくなって、放射能のことを後から知り、その怖さは言い表せません。

辛すぎて思い出したくなかったのですが81年前の記憶をたどり何とか書くことができました。父と兄は被爆してまもなく亡くなりました。二人の御霊が安らかにならんと祈願しここに捧げます。
 
稲垣 和代(旧姓 福永 和代  96歳)埼玉県川口市在住
2026年3月26日 記 

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