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ヒバクシャからの手紙 
藤井 八枝(ふじい やえ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 2011年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
「ああ…原爆許すまじ」

雲一つない真夏の青い空。真っ赤な夾竹桃に私は今でもあの、八月六日の広島を焼き尽くした紅蓮の炎を思い起こし心に重く悲しく沈みがちになる。生死をさまよった原爆症から再生して八十歳過ぎまで生きられた被爆者の務めと思い、原爆の無差別的残虐性を後世に伝えたく努力を重ねてきている。

昭和二十年六月、原爆ドームから橋一つ隔てた町、原爆で町名ごと消えてしまった商店街の鷹匠町から横川町へ爆心地から一・五キロの父の勤務先の社宅へ姉妹三人は住居を移した。両親と末の妹は広島県北の山村へ森林組合の事務所へ移った。私と妹は学徒動員生として軍需工場へ、妹は貯金局へ行かされていた。姉は勤めをしながら私達の世話をみてくれていた。

運命の八月六日、前日から来ていた父達とまだ防空壕に入れていた荷物を疎開させる為、壕の中へ入っていた。この偶然が親子の命を守ってくれた。八時十五分青白い閃光と轟音、叩きつけられて一瞬気を失っていた。土埃と暗い外、さっきまで何事もなかった町が、家が、瓦礫と化して身の置きどころもなく声も出なかった。現実とは思えない恐ろしい光景に混乱してしまい動けなかったが、姉の事が気になり勤めていた事務所を目がけて走った。すでに倒壊した建物などから火の手が上っていた。うずくまったまま動かなくなっている人、ひどい火傷の女性が助けてと取りすがる。負傷者に詫びながら、猛火の中を姉の事務所を捜した。つぶれてしまった建物は人を寄せつけなかった。

猛火に追われて見つからない姉に心を残して市内を脱出した。夜が明け切らぬうちから私達は負傷者の収容場所を尋ね歩いた。ひどい火傷の火ぶくれで目が見えない人、水を欲しがる人、一人一人に声をかけて姉の無事を祈りながら捜しても見つからず諦めかけた一週間後やっと姉の安否が分かった。郊外の小さな教会に収容されていた。家屋の下敷になっていたのを通りかかった兵隊さんに助けられて三滝山へ逃れて助かったとのこと。直後に降った黒い雨水を鉄かぶとに受けて飲ませて貰っていた。あの滝のように降った黒い雨こそ、恐ろしい放射性物質を多く含んだ雨水と誰が予知できただろうか。姉のその後の容態は悪くなるばかりで、全身打撲の上に頭から体中にガラスの破片を浴びて動かすたびに痛がった。ピンセットで取っても取りきれなかった。そのうち、母と私の体にも異変が現れた。高い熱と激しい下痢と嘔吐、体中に広がる地図のような紫斑、火傷は受けていなくても、新型爆弾の被爆者の後遺症は頭髪も抜けてしまって、毎日葬列が続いていた。私は目も耳も不自由になり幻覚症状に苦しみ意識がなくなり一カ月位生死をさまよっていた。この頃、部屋にたちこめる異様な臭気に臭い臭いとうわごとのように言って父を困らせた私。私に背
を向けて父が日に何度も姉の顔に巻いた包帯を取り替えているのに気付いた。ある日、包帯を取った姉の顔を見てしまった。顔には全然傷の無かったはずの姉の顔が…右目の下から頬、口、顎に至るまで皮膚は崩れて無くなり、化膿でウミが流れ、傾いてむき出しになっている歯が見えていた。色白で美人だった姉の顔が小さくなって人の形相でなく…今でも私は書くたびに涙が溢れてかすんできます。

父は医者が置いて行ったリバノールでガーゼ交換したり、すぐにビショビショになる包帯を涙を流しながら取り替えていた。私も母も半年余りで病床を離れる事ができたのに、姉は三年間の月日を費やして何度も失敗を繰り返してどうにか自分の腹の皮膚の移植で形成手術を終えました。結果は顔に大きな傷跡を残し、食事は座って食べる事ができなくていつも寝て食べるので人前で食事を取る事ができませんでした。ヨダレが出たり唇がとじられず五十一才の命をとじるまで大きなマスクを外すことはありませんでした。姉はとても優しい気性で誰も恨まず人に尽くして懸命に生きて、最後は甲状腺のがんに苦しみ抜いて点滴中にブザーを握ったままひっそりと亡くなりました。私は姉が不憫でなりません。原爆が憎い。原爆許すまじ…戦争を許すまじ。

この世から核を無くすことこそ被爆者は一番望んでいること。世界の平和を願ってやみません。
                                  平成二十三年七月十一日 藤井八枝 82才
 
追伸
被爆後の「苦しみ」
◎父は肺がん、母は糖尿病から多機能障害、姉は原爆症、甲状腺がんで死亡しています。
私は、四姉妹の中でも被爆の身を隠さず言っていましたが、姉は縁あって大分市へ嫁いでいきましたが年中マスクをかけている姿を気持ち悪いとか結核だろうとか言われて困っていました。ペニシリンとか手に入りにくい頃、移植手術したので化膿してウジがわいて腹の皮膚を左右両側から取って手の甲へ移植し、それを顔に移植する手術で裸になると体中すでに傷だらけで、病院へ行く事を嫌って特に大きい病院を嫌っていました。末の妹は二次被爆だったので被爆者ということさえ嫌って被爆者手帳を拒否していました。幼かったので後遺症が次々表れて病気ばかりしていて、乳癌で右乳を取っています。堪えかねてとうとう手帳を頂きました。でも特別手帳は申請していません。私達被爆者は死ぬまで被爆者の肩書きを外すことなく、がんにおびえながらも、申請の手続きがむずかしいので半ば諦めているのです。
 
*読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。 

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