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被爆について思うこと 
堀川 幸子(ほりかわ さちこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 広島女子高等師範学校(広島市千田町二丁目【現:広島市中区千田町二丁目】) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子高等師範学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
朝夕は大変お寒くなって参りました。
この度の調査に対しまして係りの方々の皆様にお世話になります事、御苦労様でございます。

私は被爆六十年目に当る今年に入りまして、右手の小指とくすり指が痛くなりました。またペンを持って字を書く事も出来にくくなり、お食事の時に箸を持つ事も出来にくくなりました。

三月、広島共立病院の□医師の診断により「伸筋腱脱臼」との病名により四月十五日に手術。小指、くすり指、中指の三本を右に傾いている部分等を正しくする手術を約二時間かけて致しました。そして一ヶ月入院して現在はずるずるですが字も書けるようになっております。

また、最近になり目の白内障手術も受けなくてはならなくなりました。十一月八日に左目、十二月十五日に右目白内障の手術です。
私は右手と左手にケロイドが残り、特に右手首がひどいのです。

同封致しました、昨年私が卒業した学校でお話させて頂いた文章をお読み頂きましたら、
当時の事が少しわかって頂けると思って同封致しました。

私は今の子供たちに私の手を見せて平和を考え、生命の尊さをわかってもらえたらと思いまして、語り部として体力のある限りさせてもらいたいと願っている者でございます。今年は手術等もあり、今年の夏は乗りこえられないくらい体力がなくなりましたが、それでも二回お話が出来ました。

十二月五日には、小学校で語り部をさせて頂きます。十二月一日、広島共立病院に主人に車で連れて行ってもらって、もうそれ以上は治らないのではないかと先生に診断されるのではないかと心配しています。

小指は手の中にめりこんで、物をにぎる事がとても不自由になって来ています。

乱筆の走り書きでした。どうか御判読下さいませ。

最後に私の次女が私の事を歌い、朝日歌壇に入選した短歌を紹介させて頂きます。
反戦を あえて唱えぬ 母なれど 母のケロイド 反戦を語る」(昭和六十三年作)
 
 
 
命の尊さと平和の有り難さ
 
平成十六年六月八日、学校よりご指名があり、懐かしの母校に参上しました。当日は八百三十名の生徒さんと先生方を目の前にし、こんな大人数の前で果たして「命の尊さや平和の有り難さ」について十分なお話ができるのかと思いましたが、なんとか話を終えることができました。

その直後、私がクラシック音楽が趣味であることを担当の先生にお話ししていましたところ、学校側のご好意で管弦楽部員百二十名の方々がオペラ「白鳥の湖」第四楽章の演奏を聴かせてくれました。素晴らしい音楽の演奏の終了とともに、私は胸の高鳴りと感動の涙が流れるのを止めることができませんでした。七十六歳の今日、私のために懸命に演奏してくれる後輩の姿に「今日まで生きていてよかった。」と心から感謝の思いでいっぱいになりました。

私は昭和二十年三月、学徒動員先の兵庫県宝塚市の川西航空機製作所の寮の大広間で、一年繰り上げ卒業いたしました。その年に広島市に新設された広島女子高等師範学校に、当時のA校長先生の強いご推薦もあり、無事合格することができました。当時は太平洋戦争末期で、戦局はいよいよ急を告げ、日本の主要都市はB29爆撃機による攻撃で焼土と化していました。私が広島に新設された学校に入学することを母は強く反対しましたが、私は向学心に燃え、母の反対を押し切って七月二十一日の入学式に臨みまたた。
入学式の翌日から授業は始まり、八月六日までの二週間の授業は私にとって忘れることのできない素晴らしい内容でした。食糧も少なく、暑いさなかに風呂にも入れず、夜の空襲警報に脅かされての二週間でしたが、私たちは教授の先生方の励ましと寮生活の仲間に支えられ、少しも辛い苦しいとは思いませんでした。

その日は前夜空襲警報が長く続き、翌朝警戒警報が午前七時頃解除となりました。空は雲一つない青空で、真夏の太陽が朝から照りつけていました。第一限の授業は修身で、合同校舎で約八十名の生徒がB先生の御来室を待っている静かな一刻でした。B先生の靴音が聞こえてきたその時です。八時十五分、私は右側の窓に近い列の席にいました。右前方で黄と白のフラッシュのような閃光が輝きました。私は思わず反射的に目と耳を覆って机の上にうつぶせましたが、何とも表現のできない大音響と共に、熱い熱い炎のような熱風が私を襲い、倒壊する校舎もろとも吹き飛ばされました。私のお下げ髪をじりじりと焦がしたあの音と臭いは今でもはっきりと覚えています。また深い真っ暗な底なしの井戸に吸い込まれていく感覚の自分に対して、「死んではならぬ、負けてなるものか」「お母さん助けて!」と叫んでいました。

どの位時間が経ったでしょうか。友人の「お母さん」と叫ぶ声にハッと気がついて、早くここから出なくてはならないと思いましたが、自分の体がどこにあるのか真っ暗でわからない上に、校舎の頑丈な柱や板に囲まれ身動きのできない有様でした。必死に体を動かすうちに右足と左足が少しずつ動き、隙間ができ、やっとの思いで校舎から抜け出すことができました。頭を強く打っていたせいか、すべての風景が黄色くぼんやりぼやけたなかで、友の顔や自分の頭から血が吹き出していることに気づき、失神しそうになりましたが、気力だけが私を支えていました。一人二人と出てくる友も皆負傷していました。校庭の大きな柳の木が真っ二つに割れ、校舎はほぼ全壊に近い瓦礫のような有様でした。何が起きたのかわからぬまま、先生の指示で学校の西側に流れる元安川の南大橋まで竹製の救命具をつけて、吉島飛行場まで逃げることになりました。途中街の人々が、何やら叫びながら右往左往していましたが、男も女も老人も子供も全裸に近く、両手を前にだらりと垂れ、髪を振り乱し狂ったようにわめいている哀れな姿は、まさに地獄のようでした。また強烈だったのは、頭が割れて白い脳味噌が見える母親を抱いた青年が「弟が家の下敷きになっている。

助け出すまで母をお願いします。」と話しかけてきました。私は一刻も早くここから逃げ出したかったけれど、虫の息のその母親を置いて逃げることはできませんでした。その母親の頭を持って「早く早く」と祈っていると、やっと青年が弟を助け出してきました。その後あの青年達はどうなったのでしょう。私は友人達から大分遅れて南大橋を渡り、少し行ったところで「黒い雨」に打たれました。放射能をたくさん含んだ黒い雨。少し行くと雨は上がり、メガホンを持った救護班の方が「海水につかれ」と叫んでいました。「消毒になるんだ」と言われ、満潮になっている元安川に飛び込みました。その瞬間、私の両手に激痛が走り、初めて自分が火傷をしていることに気づいたのです。海水につかって出てきた時の状況は一段とひどく、洋服の切れ端と思っていたのが手の皮がぶら下がっている人々であったり、目玉が飛び出しかけている人や顔が真っ黒に焼けた人など、悲惨な姿の人々が飛行場へと逃げていました。私はあまりの悲惨さと恐ろしさに気が狂いそうになり、飛行場で兵隊さんに救命具を切り離してもらった途端、その場にばったりと倒れてしまいました。

それからどれ程時間がたったでしょうか。真夏というのに全身をがたがた震わす寒さと友の叫ぶ声に、私ははっと目覚めました。陽はすでに暮れ、防空壕に寝かされていました。我に返ると私の両手は膨れあがり、指と指の隙間がなくなり団扇の様になって曲げることも上げ下げすることもできない有様でした。また右手首には黄色い膿が出ており、悪臭が鼻をつきます。「水が欲しい。」のどが焼けるようでした。壕から出て周囲を見ると、西の空に夕日が沈んでいました。「水をくれ。水を。」と、哀れな声で叫ぶ負傷者が何百人もいて、足の踏み場もない有様でした。そんななかでも私は、「これしきのことで負けるものか。しっかりしろ。意気地がない。」と自分自身を強く励ましていました。避難者の治療は薬もなく、治療らしいこともできません。砂浜にむしろを敷いて寝かされ、腐っていく手や顔を塩水で洗ってピンセットで膿を削り落とし、ひまし油を塗るだけの治療でした。私は八月六日から高熱が出て、配給のおむすびも手が使えないのでほとんど食べられず、三日目には血尿・血便が出て体力がなくなり、気力だけで生きていました。毎日何十人という人が死んでいきました。身元のわかった人から板の上に乗せ、油をかけて焼くという、酷くも悲しい光景。そして一帯には異臭と悪臭が満ち満ちていました。早く善通寺に帰りたいとどれ程思ったことでしょう。

八月十五日終戦の日となった当日、軍の命令で広島西部の己斐国民学校に収容されることとなり、トラックで運ばれる寸前、やっと母が迎えに来てくれました。母の姿を見て、八月六日から一度も泣かなかった私も初めて泣いてしまいました。母は変わり果てた私を見て、「絶対に死なせてはならぬ」という一心から、涙も出なかった、と後で聞いて、深い深い親心に只々有難いと感謝しています。母は信仰心が厚く、熱心に神仏に祈願してくれました。その甲斐あってか、被爆してから十日目にして熱が下がり、頭をきつく取り巻いていたような重みや体の震えも止まりました。救護して下さった先生を始め、善意の皆々様のお陰で善通寺へと帰ることができました。

帰ってきた翌日から、私の闘病生活が始まりました。医師は全身の大小様々なガラスの破片を見つけ、取り除いてくれました。しかし、放射能による両手と右顔面の火傷の治療は、医師も対処がわからず、リバノール液につけた二、三十枚のガーゼを乗せるのみの治療が長い間続きました。両手は骨まで腐り、その悪臭で家の前を通る人から「臭い」といわれました。母は漢方薬のドクダミ草が毒を消すと信じ、朝昼晩と食前に葉をすりつぶし、飲ませてくれました。その甲斐あってか一ヵ月半後に体中に塩が吹いたように体内の毒素が吹き出し、荒れていた皮が取れ、昔のようにきれいになってきました。母は治療中、二度輸血をしてくれたり、高価な皮膚薬を神戸から取り寄せるなど、当時としては最高の治療をほどこしてくれました。手も十二月の終わり頃に、自分の左足から皮を取る植皮手術を行い、被爆以来七カ月後にやっと皮がつきました。しかし、右手首のケロイドとひきつりがひどく、翌年には自分の大腿部から肉を取る整形手術を受けて、やっと人並みに字を書いたり身の回りのことができるようになりました。

その後、夫と知り合い、いろいろな困難を乗り越え、夫の母の理解もあって、傷だらけの私も結婚することができました。夫の勤務の関係で二十年余り東京で生活いたしましたが、被爆者に対する流言もあり、極限の不安の中で、無事長女を出産しました。安心と共に感謝や感激でいっぱいでした。しかし、この頃の東京での生活は何かと苦労が多く、とくに銭湯へ行くと、私の手を穴が開くほど見る人も多く、汚いもの伝染するものと思われ、悲しい差別も受けました。電車の中でも隣に座っている人が席を立つ等、様々な苦しみを味わいました。子供達の結婚適齢期には、長女から「被爆二世は結婚できないのでは?」と言われ、悲しい思いもいたしました。しかし、幸い一男三女みな健康で、全員が明るい家庭を築いてくれています。

四年前、郷里善通寺から今在住している岡山の地に参りまして、地元の小中学校等の集会の機会に私の被爆体験を聞かせてほしいという声に励まされ、五十九年経った今も一発の原子爆弾がいかに残酷で恐ろしいものであるかを一人でも多くの方に伝えていく使命があると考え、体力のある限り「語り部」として歩んでいきたいと思っております。  
 
 *読みやすいように文字の変換や句読点、送り仮名などを一部補っています。 

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