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平和への願い 
永石 和子(ながいし かずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 23歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1979年 
被爆場所 広島市松原町 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
もう遙か昔の、人によっては消え去っているかもしれない、第二次世界大戦の痛みを勇気をもって記すことに致しました。
 
あの、戦争の末期、母を失った私達一家は東京を離れようともしない、元海軍々人であった父を説き伏せ、九州の知人を頼って疎開致しました。間もなく東京の家が空襲で焼けた為、病弱の父に代わって、8月5日の早朝、私は一人で上京することになりました。当時東京行の直通列車はなく、広島で乗り換えるほか方法はありませんでした。汽車は何回か機銃掃射にみまわれ広島についた時は、すでに東京行が出た後でした。
 
改札を出た私は「さて、どうしようかな」と、出勤時の雑踏を搔き分け、駅前に並ぶ旅館の軒先に立ち途方に暮れていました。その直後のことです、ピカッとマグネシウムの光のような光線に右半身をヂリッヂリッと焼かれ、私は道路に叩きつけられてしまったのです。思わず「お母さん!熱い」と、叫んだのを覚えております。気がついた時、辺りは夕闇のような暗さになり、駅前の人群れは一瞬の火の海に飲まれておりました。私の姿は髪の毛が焼けとれ右顔面が焼け爛れ、背中の防空頭巾は綿まで焼け、右肩から肘にかけて皮膚がチリチリになり、肩の筋迄、露出していました。茫然自失していた私の前を一人の青年が通りかかり、助け起こしてくれました。そして「親戚の医者に連れて行ってあげましょう」と、先に立って案内してくれました。ところが行く先き先きは、凄惨を極めてくるばかりで、一面瓦礫の山となった下からは、切れ切れに、助けを求める声がします。しかしどうする事も出来ず、その声を足元に聞きながら逃げるしか方法はありませんでした。
 
一瞬、広島全市を総なめにした光線は、再び、総てを焼き尽くす火勢となって、燃え上ってきました。東京空襲の恐怖を経験している私は、広島市内を流れているいくつかの大きな河を思い出し、「早く河に逃げましょう」と、狂ったように叫びました。私の声に耳を貸さず、ただ右往左往する人達に歯軋りするような思いで、私は青年に連れられて河に向いました。私の前には、背中の皮が全部剝げ、その儘、腰布のように垂れ下げている人、全身真っ黒に焼けている人、血だるまになっている人々の行列が、声もなく安全地帯を目指して動いていました。

辿りついた河は、信じられない程、穏やかに流れていました。土手に座った私は、これで無事に帰れると、ほっとしました。然し突然巨大な火柱が川向うに立ったと思うと、こちらの岸に靡くように倒れ、次々と焼いていきます。土手は人の群れで埋まり、広島師団の兵士、勤労動員された少年少女達が、何時の間にか私の周囲をぎっしり埋めていましたが、そのうちに熱さに耐え切れず、どっと河に、なだれ込みました。突き落とされ川底に踏みつけられ溺れた私を、又あの青年が助けてくれ、石垣にしがみつかせてくれました。
 
幾時間、経ったでしょうか。「もう大丈夫でしょう」と、促す青年の声に、私は、やっとの思いで這い上りました。その瞬間、息をのみ棒立ちとなったのでした。炎を出して燃えている死体の山、山でした。この方達の犠牲があって、私は助かったのだ―そんな思いで私は手を合せました。ふたたび歩き出した私は、堪えきれず泣き出しておりました。

次第に弱っていく私を、橋の袂に座らせた青年は「ここで待っていてください、父母を探して来ますから」と、何回も念を押し、振り返り振り返り去っていきました。
 
夕闇が迫り次第に暗くなっていく焼け野原は、屍の山と、焼け爛れた息たえだえの人々で、鬼気迫るものとなってきました。救助に駆け付ける人々の足が、跡絶えがちになってきますと、私はもう耐えられなくなって、青年との約束を破って、その場を逃れるように歩き出してしまいました。

今思いますれば、始終、私を助けて下さった青年は、跡形もなくなった家を探し、肉親を訪ね歩かれた事でしょう。お名前を聞く余裕もなかった私は、この生命の恩人を思い出す度に、御恩を返す事も出来ず、心が痛んでなりません。病院代わりとなった小学校に、やっとの思いで着いた私は、明日こそは汽車の出る所迄いこうと、一晩だけ泊めていただくことにしましたが、一晩の中に私の体は毬のように張れ、熱は40度を越えておりました。そして、激しい下痢が襲い、とうとう動けなくなってしまいました。

私は荒筵を敷き詰めた教室に移されたのですが、周囲は、まさに臨終の重傷許りでした。一人、又一人と死んでいく人達を、何度悔しい思いで見送った事でしょうか。ある若者は「俺は、まだ若いんだ、したい事が一杯あるんだ」と、急に立ち上って絶叫したかと思うと、息をひきとってしまいました。

荒筵に横たわった私は、絶対にこんな所では死にたくない、どんな事があっても、父や妹の所に帰り着きたいと思いましたが、医師が許しません。夜が明けきらぬ内に、亡霊のような姿で、そこを脱け出たのでした。
 
身の置き所もない程の痛みと、苦しみに何処を、どうやって歩いたのでしょうか、化膿してしまった右腕には蠅が群がって困りました。三日かかって、長崎県の佐々と云う村の疎開先に、どうやって辿りついたか覚えておりません。

妹は、私の姿を見た途端、キャツと叫んで家の中に飛び込みました。私は、父の顔を見ると、その儘、気を失い二日間、生と死の間を彷徨いました。奇跡的に、一命をとりとめる事が出来ましたが、この時、私は若くして逝った方々の無念の声を決して無にしてはならないと心に誓わずにはいられませんでした。多くの人の犠牲の上に、私は生きている。この事を思う度、生き残った者こそ平和を願っていかなければならない責任と、使命を感じるのです。

『戦争ほど 残酷なものはない。
戦争ほど 悲惨なものはない。
…(省略)…

ともあれ、一人の人間における偉大な人間革命は、…(省略)…全人類の宿命の転換をも可能にする』
―(小説「人間革命」第一巻 池田大作著 昭和40年 聖教新聞社 より)
一日の命の価値が大宇宙の財(たから)より勝れているというのが、仏法の原理であります。ささやかな力であっても、人間一人のもつ影響力は確実に囲りの環境に変化を与えることができる…何と尊い人生の生命かと、改めて感慨を深くします。
 
私の娘は今年で23才になります。私が被爆した年も、23才でした。
戦争を体験した私達の世代は、尊い青春を奪われ、心の奥では、いつも平和を願っておりますが、その己れの小さな存在を大切にしたいと思うこの頃でございます。
 
1979年 春
 
(実践女子大学同窓会報への投稿文より/昭和16年12月同大学卒業)
 
(この他にも被爆体験記『いのち 永石和子』がこの平和祈念館に収蔵・公開されています)
 
※永石和子・長女からの追記
2025年秋に改めて母の遺品を整理する中でこの原稿を見つけ、亡き母に代わって祈念館に寄稿することに致しました。

生前母からはこの投稿のことを聞いていて、私も平和祈念館に寄稿した追悼文で紹介していますが、実物(母がコピーしたもの)を目にするのも内容を読むのも初めてでした。被爆80年の年に合わせて亡き母から「まだまだやることはありますよ」と励まされた思いになり大変感動しました。

また、「私の娘は今年で23才になります。私が被爆した年も、23才でした。」の一文を目にして、当時23歳の私を前に母がどんなに深い感慨を抱いたのか、私を命がけで産み愛していたのか、そして23歳の自身を思い出していたのか…胸に沁みわたり息が詰まるようでした。

この母の思いを受け継いで、これからも平和のメッセージを送り続けたいと思います。
 
2026.6.7
 
                                    近藤 泉 

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