私は昭和15年8月26日に、中国の大連で生まれました。父は軍人で建築関係の仕事をしていました。中国人の行動がおかしいと思い、昭和18年にいち早く帰国したと、後に聞きました。私の名前は、中国の故事にちなんで付けられたそうです。
昭和20年8月6日
私はまだ4歳、もうすぐ5歳になる日の出来事です。
当時は食べる物がなく配給で母と一緒に配給品を受けるため、
1945年8月6日、午前8時過ぎ
母から「ヨッちゃん配給もらいに行くから、準備しんさい!」
と言われて、私は父が作ってくれた買い物用の小さな大八車(荷車)をひいて遊んでいたところに、「ドカン」ときました。急に真っ暗になり爆風で、
「あっ」と思ったら、意識が無くなり、直ぐに気を失いました。あっと言うまの出来事だったように思います。母も探し回ったようすですが、周辺は混乱な状況で見つからずにいたなく倒れ込んでいたところを、、、近くのおばちゃんが、「ヨッちゃんが、頭から血を流して倒れとったよ」と母(ヨシ)の元に、頭が血もぐれの私を抱き抱えて連れてきてくれたそうです。
私は意識がなく、八時十五分、原子爆弾投下による爆風で家の屋根の瓦が飛んできて頭に当たったようでした。
その後の事はよく覚えていませんが、母が血もぐれになった頭の怪我に父が飲んでいた焼酎をかけて消毒し、その傷にメリケン粉に焼酎を混ぜた物を付けてくれていた事を覚えています。痛いとか痒いとか言っても、どうにも出来ない時代でした。
その後も病院に怪我で連れて行ってもらえることはなかったです。あの周辺の被災状態では、病院に連れて行けるようなことはなかったのだと思います。
そのうち、原子爆弾が投下された直後は「水ちょうだい!水ちょうだい!」と沢山の大火傷した沢山の人が、さまよい歩いて、母(ヨシ)に訴えてきたそうです。
勿論、水などありませんし、出ません。
母(ヨシ)も家から出た所で、被爆したようですが、
もし家の中に居たら大怪我していたか?死んでいたと母がいっていました。
家は、隣の家に寄りかかった状態で傾いていました。家の中の箪笥がメチャクチャに移動し、畳はひっくり返り、玄関のガラス戸のガラスが割れ、襖に無数に突き刺さっていたからです。
私は幼かったので父がどこに出かけていたのか覚えていませんが、被爆後に家に帰ってきました。
被爆して数日はぐちゃぐちゃの家の片隅で父と母と私三人で私は怖々寝ました。
父は数日すると、傾いた家屋を補強、手直ししてくれました。近所の若い人も沢山亡くなりました。
父は自分の弟の連れ合いの妹さんが、袋町小学校で働いていたので、心配して翌日親類の方と、御幸橋から千代田町、国泰寺町、そして袋町小学校と探しましたが見つからず、何処かに居るのではないかと、さらに紙屋町から広島駅を経由して比治山の線路つたいに探し廻ったそうです。周囲は散々な様子だったそうです。
この話しは、子ども心に忘れることができません。
また父親は漁師でもあり釣船を多く持っていました。川に多くの死体が流れていて、それを引き上げて似島に運んでいましたので、父もそれを手伝っていました。似島の検疫所は出兵の時も帰った時も軍服や携行品の消毒などをしていたところです。負傷者の数が数だけに、そこしか無かったのだと思います。私自身もある程度、回復後一週間位して私も手伝いました。火傷などして惨たらしい遺体を、船を引っかける道具で引っ張って寄せるのですが、手や足が引っかかるので父は私たち子どもに、「はずせえ~や」と言って手伝わせました。おそらく一か月以上手伝っていたと思います。当時は食べる物がなく、手伝うと食べさせてもらえるので、そのために手伝っていました。今では子どもには、させないような仕事を7人の子どもが手伝っていました。軍が残っていた重油を死体にかけて焼いていたのを側で見ていました。異様な情景に私は感情が麻痺していたとおもいます。
被爆した時には解っていませんでしたが、小学校4~5年生頃までは、レントゲンで心臓が腫れていると診断されたため、病院に入退院を繰り返していました。当時は氷もなく、薬という薬はなく、人参をすりおろしたものを飲んだりしていました。
小学校では体育の時間はいつも休んで身体をやすませていました。
ABCCにも何度も行きました。女性に尋ねたら「成長したら恥ずかしかった」と言っていました。
*戦後の暮らし
原爆投下後、各所で炊き出しが行われました。主におにぎりやカボチャやサツマイモのごった煮でしたが、沢山の人が行列で並んでもらっていたことも覚えています。
「運の良い人間は2回食べる」
「運の悪い人間は並んで配給が無くなる」
運が悪い?運だけでは片づけられない状況がここにありました。
だから、何でも行動は早く、この時代に生きた人は早食いです。
結婚して子どもが生まれ、子供達に成人になるまで、食事中はテレビなど見せたことはなかったですよ。それは、この時代の躾として当たり前だったと思います。
また戦後は、広島市宇品町の自宅の近くに、畑があり、そこで色んな野菜が栽培されました。サツマイモ。飢えからサツマイモを畑から頂戴し食べた事もありました。
サツマイモは蒸しても今のように甘みもないサツマイモでしたが、蒸して食べる余裕さえありません。生で噛り付いたこともしばしばあります。
飢えから、その辺にある雑草も口にしました。
母が、よもぎ餅を作ると、餅米が少なく、ヨモギが多いのですぐ腐っていたが、その酸っぱみのある、よもぎ餅を食べて空腹を凌いだんです。
食糧難で田んぼに、雷魚や鯉が、養殖されていました。その魚もいただいて食べたこともあります。雷魚は骨が多く美味しい物ではありませんが、空腹を凌ぐためにその時分はそんな事を考えてはおられません。
御幸橋の下は、当時は汽水域「薄い潮水が入っており」で、ハゼやボラが取れたので、捕まえて食べて飢えも凌いだんです。
また父から私は子豚の飼育を命じられ、大きく育つまで可愛がっていると、当然、いつの日か豚小屋からいなくなることがありました。それが食卓に出たりしました。ニワトリもそうだったです。子ども心にショックですが、「命のありがたみ」を学んだと思います。そんな生活をしながら戦後の厳しい広島で命を繋いでいったんです。
中学に入学してから、自分自身を取り戻したようにスポーツに熱中し、そのうちに体力もついて自分なりですが精神力も強くなり楽しい日々が過ごせるようになりました。
しかし何かにつけて「被爆者」という事が引っかかりました。父が建設業をしていて、高校まで卒業させてもらいましたが、就職活動は何十件も断られました。
結婚して50年、妻には苦労かけましたが、その妻は骨髄異形成症候群で73歳に息を引き取りました。
その後も私に「原爆で免疫が付いて長生きしている」などと、心ないことを言われたり、生前の父や母のことを色々と被爆したことで言われ、そのことのほうが辛かったことが多くありました。
*父の名前は 虎一
父は大工の頭領でもあり、広島城の原爆後の再建時に関わり、広島市から破風の仕事を請負ったそうです。自身で破風専用の左官コテを作成し、破風を完成させたと聞いてます。
広島城が完成したときには広島市から感謝状をいただいたようです。
また原爆投下後の広島の街で、廃材で家を沢山建て、被爆して家を失った人困ってる人を助けながら、なんとか生計をたてたと聞いています。
父、虎一は柔術を備えていました。私が高校生の時に父に反抗して、かかっていったことがありますが、軽く簡単に投げられました。
中国との戦争で虎一は中国に3年間滞在し、軍馬にも乗っていたと聞きました。
凄く勇敢で強い父でしたが、若くしてこの世を去りました。私にとって偉大な父です。
母、ヨシは宝塚に所属したことがあるときいていました。母には良く可愛がられて育ちましたので、とても感謝しています。
*幼かった中の戦中の暮らし
戦中には広島は空襲がありませんでしたが、時々、アメリカの飛行機が
飛んできて、警戒警報、空襲警報が鳴り、その度に母に連れられ防空壕に逃げ込みました。
*老いた想い
私は成人になってから、マムシ蛇を獲りマムシ酒をつくって飲んだり、身を食べたりしていました。沖縄のハブよりマムシの方が効能を聞き、体に良かれと思い少し嗜んでいます。
こんな時代に生きたので、好き嫌いはありませんが、鰻や穴子、青豆ご飯は苦手です。戦後から宇品の海岸で獲れたシャコを良く食べていたので好きです。
原爆の日「平和記念日」には平和公園に毎年足を運んでいますが、最近はお祭り的になっている感じがして、被爆者の方々を思えばひっそり静かに式典を行っていただきたい気持です。
最近は友人達が他界し行くのを見るととても不安をいだいております。
国の代表の方々も参列されていますが、被爆者の話を聞いてくださっているようには思えません。
私達、被爆者が亡くなってしまうことを、待っているように感じてしまうことがあります。
もっと命を大切にしていただきたいと思います。
願いは届きますでしょうか。
人間、体験がないと直接感じにくいと思いますが、戦争はあってはならないのです。今もあちこちで戦争があるが、それは経済的摩擦や格差でおきていると、私はおもいます。
今、核兵器が使われる危機があります。核兵器を使うことは絶対あってはならないです。
そんな中、
「今は同じ一日、同じ1時間、同じ時を、どうせなら楽しいことを考えて過ごさなきゃいけない」と思って暮らしています。
絶対に戦争はしてはなりません。
戦争はなにも得は無い。
戦争は感情まで狂わせる。
戦争は憎しみしか生まれない。
核兵器は何か得などあるのだろうか。
ありやしない。
平和はみんなの笑顔になる。そして心も穏やかに豊かになる。
2025年6月
~核兵器も戦争も無い世界に~
なるよう祈っています。 享年85歳 |