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父の命と引き換えに 
穐本 昭江(あきもと てるえ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2017年 
被爆場所 広島市舟入川口町[現:広島市中区] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島実践高等女学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の生活
私の実家は七月初めまで鉄砲屋町(現在の中区袋町)にありましたが、建物疎開の対象となっていたため舟入川口町に引っ越していました。

父の箕島正夫と母の千代子、私と次女の妹の敏江の4人で暮らしていましたが、小学生だった弟の克行と三女の妹の球江は学童疎開で双三郡(現在の三次市)へ、末の四女の妹の冨江は神石郡に縁故疎開していました。

私と敏江は広島実践高等女学校に通っていて、私が三年生、敏江が二年生でした。一、二年までは授業がありましたが、三年になってからは学徒動員で家の近くにあった新興ゴム(舟入川口町)で配電盤に使うゴムを切る作業をしていました。敏江は安芸郡海田市町(現在の安芸郡海田町)へ学徒動員で行っていました。

父は広島航空機(古田町高須)に勤めていました。本通り周辺の人たちが出資してできた会社で、祖父も出資者の一人でした。父は大株主である立川航空(東京都立川(たちかわ)市)へ研修に行き、広島に戻ってからは高須の工場で溶接を担当していたようです。
 
●八月六日
学徒動員先の工場が家から近いため、八月六日の朝はまだ家にいました。

父は国民服を着てゲートルも巻いて、出勤の支度をしていました。七時九分に警戒警報が発令されたのですが、しょっちゅう警報が出ることに慣れてしまっていた私は、まだ寝ていました。父が「ちゃんと起きんかい」と起こしにきましたが、私が「いや、もう死んでもいい」と言うと、初めて拳骨で頭を殴られたことを覚えています。

父は「今日は土橋に強制疎開の家を壊しに行く」と言って家を出ました。会社の割り当てで、県女(県立広島第一高等女学校)の生徒を連れて向かったようです。
 
八時十五分の瞬間は、家のちょうど道側に面した部屋にいました。

窓の下がぱっとオレンジ色に光ったので、窓のすぐ外に焼夷弾が落ちたのかと思いました。ボンという音がしたように思いますが、光ったことが印象に強く残っています。

家がグラッと揺れた瞬間、仰向けに倒れ、上を見ながら「ああ、私はここで死ぬのだ」と思いました。

当時は、いつどこで死ぬか分からない、という教育を受けていたので、死を覚悟しました。祖父が「南無阿弥陀仏と言ったら極楽へ行ける」と言っていたのを思い出し、南無阿弥陀仏と心でつぶやいた途端、隣の部屋にいた母が「照江ちゃん、逃げよう」と声をかけてくれて、はだしのまま外へ飛び出しました。

外は真っ暗でした。台風みたいにゴーという風の音がしていて、顔に手を当てて無我夢中で走り、防火水槽に飛び込みました。焼夷弾が落ちて火事になっても防火水槽の中にいれば大丈夫ととっさに思ったからです。

しばらくしたら爆風が収まったので、周りを見ると若い女の人が二人いるのが見え、向こうも私に気づいて近づいてきましたが、私を見るなり大泣きをし始めました。

家から随分走ったと思っていましたが、庭から隣の家ぐらいまでの距離しか離れていませんでした。私の家は壊れずに建っていました。この辺りは爆風だけでまだ火の手はあがってはいませんでした。

家に戻り、二階にあった鏡台で顔を見たら、血だらけでした。手で顔を覆っていたのに窓際にいたので、手の隙間からガラスの破片が顔中に刺さっていました。先ほど出会った二人の女の人が泣いたのは、血だらけの顔の私を見て、恐ろしかったのだろうと納得しました。

水道から水が出たので顔を洗い、救急袋にあった赤チンと皮膚薬を塗りたくりました。左手の中指付け根の関節がかぎ裂きになって骨が見えていたので、肉を引っ張って骨を隠しました。右の膝も肉が見えていました。

女学校の保健の先生から指が切れてもすぐだったら付くという話を聞いていたので、自分で応急手当てをしました。あちこちにガラスの破片で切った小さい傷が無数にありました。

母の姿はなく私一人だったので、家を出ようとしたとき、父の革靴が目に入りました。通学はげた履きで、革靴なら鼻緒が切れることがないだろうと、父の革靴を履きました。

家を出ると、自宅から四、五軒先の二階から炎が上がるのが見えました。

町内会や周辺の人はみんな江波の皿山の麓にあった射撃場へ向かっていて、町内の何人かと合流しました。新興ゴムに学徒動員で行っていた友達とも会え、みんなが私の顔の傷を見て「かわいそうに」と言いました。

射撃場からは市内の様子は見えませんでしたが、焼夷弾が落ちるような音がしていました。後から思えば、ビルや建物が壊れる音だったのだと思います。音がするたびに大変なことだと思ったし、怖いはずなのに、興奮状態で神経が鈍ってしまい、ただ見ているだけでした。

昼も夜も何も食べないまま、その日は射撃場で野宿をしました。朝起きてみたら、一緒に避難し、野宿した人たちが何人も亡くなっていました。
 
●八月七日
七日の朝、江波の民家でトイレを借りて、おにぎりをもらいました。被爆してから、いろいろな人に親切にしてもらいました。

新興ゴムの学徒動員で一緒だった友達が革屋町(現在の中区本通)の家へ行くというので、一緒に行くことにしました。父が土橋へ行くと言っていたのを思い出したからです。舟入線の舟入川口町から電車通り沿いに土橋に向かうまでの間、父と母がいないか捜しました。

電車道の両側に傷だらけの人、やけどした人など、大勢の人がむしろの上に横たわっていました。

この時にはまだ原爆とは知らず、ひどい爆撃を受けたとしか認識していませんでした。自分自身も血だらけで、みんな大変な状況だったので、周りの惨状を目にしても泣いたり叫んだり、恐怖を感じたりすることはなく、ただ黙々と歩くばかりでした。

新興ゴムを通りかかったとき、顔見知りの工員さんがいて、ゴム草履を二足もらいました。私は革靴から履きかえ、脱いだ靴ともう一足の草履を持って歩きました。

土橋に着いた途端、急に気持ちが悪くなり、吐き気がして立っていられなくなりました。友達とはそこで別れました。

吐き気が治まり、うずくまってぼんやりしていたら、向こうから若いお母さんが、五歳と三歳ぐらいの男の子を手に引いているのが目に入りました。お母さんがはだしだったので余っていたゴム草履を「これを履いてください」と渡したら、手を合わせて履いて行かれました

その後、父が勤務していた広島航空機の立て札を見つけました。土橋で被爆した者は全員、高須の工場に避難したので家族の者は高須に来るようにという連絡の立て札でした。

私は成人してからカトリックを信仰するようになったのですが、偶然にも父が向かった土橋で気分が悪くなり、親子に草履を渡したら、立て札を見つけることができたのは、後で思うと神の導きだったように感じています。

土橋で動員先の工員さんに出会えたので、「立て札に書いてある父の工場まで行こうと思うが、どうやって行ったらいいか分からない」と言うと、「自転車の後ろに乗りなさい、連れていってあげる」と私を土橋から高須まで連れていってくれました。

広島航空機の工場で母に会えました。母は家を飛び出してから私を見失い、一人で高須の工場に向かったようです。

父は一度会社に出勤した後、県女の生徒を連れて土橋まで強制疎開の家を壊す作業に向かい、被爆したとのことでした。

父は会社に寝かされていました。父が土橋からどうやって高須まで行ったかは分かりません。

でも、布団からのぞく父の顔がきれいだったので、「ああ、母も元気でいてくれた、父も大丈夫だろう」と安心しました。

私はその日泊まるところがなかったので、母から、舟入川口町の避難先になっている佐伯郡八幡村(現在の佐伯区八幡)の役場に行くように教えてもらいました。八幡村までの道が分からなかったので、高須まで自転車に乗せてくれた工員さんに乗せていってもらいました。

七日の夜は八幡村の割り当ての農家で夕食を食べました。知らない人ばかり四、五人一緒に一晩泊めてもらいました。

高須で父と母に会えて安心したはずなのに、夕食のときにわけもなく涙が出て仕方ありませんでした。食事の最中に涙をこぼす私を見て、一緒に避難した人から「お母さんが恋しくなったのか」とからかわれました。
 
●八月九日
朝になって、私はどうしても父のところへもう一度行ってみようと思い、八幡村から広電宮島線沿いにずっと歩いて、父のいる高須の工場へ向かいました。その途中で水をもらいに農家に寄ったら、気持ちよくお水をもらえました。

高須の工場に行く前に、なぜか先に己斐へ回ったのですが、そこで妹の敏江とばったり出会いました。敏江は学徒動員で行っていた海田の工場から、八月六日の朝に高須の工場へ向かったようです。

父が八月八日の夕刻に亡くなったと、八月九日の朝に敏江から聞きました。私が見たときの父の顔はきれいでしたが、首から下は大やけどを負っていたと知らされました。

父の遺体は工場ではなく、山の中腹にある板敷きの場所に移されていました。まだ焼かれる前で、死に顔の目が薄くあいていたので、父の目を閉じてあげました。

六日の朝、「死んでもいい」と言った私が生き残り、ちゃんと準備していた父が亡くなってしまったことが悲しく、私は大泣きしました。

すると、一緒に避難している人から「まだ、たくさんの人が治療しているところなのに、ここで今、大きな声で泣かれては困る」と言われ、敏江が山の中腹の方へ私を連れていき、泣きやむまで一緒にいてくれました。泣きやんで父のところへ戻ると、もう遺体はなく、他の遺体と焼き場へ連れていかれた後でした。そして、菓子箱に入れた父の遺骨を母が持ち帰りました。
 
●終戦後
その後、貴重品やお正月の着物、布団などを疎開させていた草津の小さな旅館に母と敏江と3人でしばらく滞在していました。

八月十五日に一旦、神石郡に縁故疎開に行っている末の妹の冨江を迎えに行くことになりました。

神石郡は母方の祖母の里で、親戚がたくさんいました。終戦のラジオ放送を神石郡に向かう途中、芦品郡新市町(現在の福山市)の旅館で聞きました。天皇陛下の玉音放送を聞き、涙が出たのを覚えています。

冨江のところへ行くまでに、傷が化膿してうみが出て、包帯を何度もかえました。行く先々で皆に親切にしてもらったことを覚えています。

被爆当時、学童疎開していた弟の克行と妹の球江は、後に広島へ呼び寄せ、草津にあった母子寮に、母、私と四人の弟妹で入りました。

その後、私は母の知り合いが子守りが要るとのことで、五日市の吉見園にあるその人の家にしばらく身を寄せていました。十六歳の頃です。しかし、学校が再開したことを友達から聞き、草津に戻り、そこから学校に通い始めました。

私が通っていた広島実践高等女学校は被害がなく、戦後間もなく再開しましたが、同級生は市内へ動員に出て被爆し、亡くなった人も多くいました。

女学校を卒業してから、縁あって広島市立第五中学校で事務員をしていました。五中は今の幟町中学校の前身です。私が十七歳のときで、一年間勤めました。

五中に勤め始め、たくさん本を読むうちに聖書に興味を持つようになりました。古本屋で聖書を買って読み始めましたが、最初は名前ばかり出てきて、何が何やら分かりませんでした。

五中の先生が三篠教会の幼稚園で夜間に行われていた教会の勉強会に誘ってくださり、そこで一年以上聖書を勉強して、その後、イエズス会長束修練院でも勉強するようになりました。当時はまだ洗礼は受けていません。

その後、母の妹が嫁いでいる東京の三鷹(みたか)へお産の手伝いに呼ばれ、昭和二十三年五月ごろから約一年、叔母が元気になるまで手伝いをしていました。三鷹でも教会の勉強会に行っていました。

広島に帰ってきたら、母が四人の妹や弟を抱えて頑張っていました。私も働き始め、事務員として広陽電機という会社に入社しました。そこで専務をしていたのが夫です。当時、基町の引揚者住宅に住んでいた私に、採用の知らせを家まで直接伝えに来てくれました。

入社してから、夫にはよく教会の話をしたり、神父様に出す手紙を見せたりしていました。私は結婚を意識していたわけではなかったのですが、夫に見初められて昭和二十四年三月に結婚。十九歳のときでした。

夫は昭和二十五年に広陽電機から独立し、協和理化製作所というウェルダー(溶接機)やネオンサインを扱う会社を興しました。翌年の昭和二十六年に長男、昭和二十九年に次男が誕生。

会社には工員が二十人ぐらいいましたが、夫が病気で入院している間に倒産。その後、ご縁があり、昭和四十年夫が三十九歳のとき、広島大学内にあった工業高校の先生を養成する学校(広島大学工業教員養成所)の助手として採用されました。技術将校だった夫は、計測技術や数学の知識などがあったからでしょう。その後、富山商船高等専門学校に十六年間勤務。亡くなる前に正五位、旭日双光章を授与されました。

夫も亡くなる前に洗礼を受けています。

現在、住んでいるのは夫の実家で、被爆した家です。夫は東京に勤務していたので被爆していませんが、義母は自宅で被爆したそうです。
 
●平和への思い
一発の原爆であれだけの災害が起こるのに、その十倍もの破壊力がある水爆が世界のあちこちに存在し、それがもし使われるようなことになったら、人類は滅びてしまうのではないかという不安があります。

今、成人している人たちはあの悲惨な破壊力を知らないでしょう。

ちょうど私たちが若いときに明治維新のことを大人の人たちから聞いても遠い昔の話と思ったように、原爆投下から七十一年たった今、若い人たちも原爆のことを遠い昔の話としか感じていないのかもしれません。

原爆を二度と体験したくないし、父を亡くした悲しみ、自分が生き残った苦しさが心から消えることもありません。でも、私のように生き残ることも一つの定めで、貴重な体験なのかもしれないと思う様になりました。信仰が私の支えになったのかもしれません。

一人の人間の力は小さく弱くても、一人ひとりが平和を望むことで、戦争を起こそうとする力を食い止めることができると信じています。

若い人に原爆の恐ろしさや破壊力の大きさを知ってほしいです。そして、ずっと戦争がないようにと願っています。 

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