当時女学生三年の私は四月から金輪島で作業をしていた。その日も何時ものように八時から朝礼が始まった。警報は解除されていたのにその時三機の飛行機が飛んでいるのが目に入った。そして一瞬広島上空は照明弾が落ちたのかと思われる程に明るく輝いた。そのうち真白できれいな巨大キノコ雲が浮かび上がった、と思ったら猛烈な爆風におそわれた。私たちはいそいで目と耳を手で押さえて近くの建物の溝に身を伏せた。どれ位たったか先生の号令で元の場所に集った。幸いガラスの破片で軽い怪我をした位でみんなたいしたこともなかった。間もなく広島市内上空は真赤になった。午後になって今日は帰れそうもないからということで全員島に泊ることになった。その夜この島には五〇〇人位の人々が収容され、私たちは語りつくされているような人々のお世話をした。そのかいもなく翌日には三分の一の人が亡くなった。私の家は千田町一丁目日赤の真前だったが爆風でこわれ、たちまち焼けた。母は二階屋の下敷になったがやっと表に出られたと云う。いざという時のための大芝の家にたどりついたのは三日目。それから毎日まだ帰らぬ弟を探し歩いた。しかし土橋方面で建物疎開のため作業をしていた彼はその日のうちに死んでいたようだ。歩くこと一ヶ月、知人の報せで名札、ズボンのバックルと少々の遺骨に対面した。市役所に安置されていた。八月六日似の島で没。大芝ですごした一ヶ月の間毎日西から東から歩きながら、その間には近くの学校が救護所になっていて、そこに集ってきた怪我人の手伝いもした。殆どの人が重傷にもかかわらず、油と天花粉という丈の手当てで、何日もたつうちにヤケドは亀の甲のようになり下はうみ、ウジがわき、そして亡くなったかたの何と多かったことか。死ぬと川原に穴を掘り焼かれた。五〇年前に受けた強烈な出来事、そして五〇年たっても忘れ得ない出来事、それはこの世に戦争が亡くならない限り私の心によみがえり続くでしょう。五〇年を前に昨年私はようやく被災地金輪島、我が家の焼け跡、弟の作業していた辺り、爆心地で一家全滅の叔父の家の跡など訪れた。原爆ドームと資料館がなかったらあの惨状を想い出すきっかけは何もなかった。改めてお水お水と云いながら亡くなった多くの人たちの死は何だったのか考えたい。静かに流れる川に涙があふれた。 |