あの日、私は自宅近くの防空壕(素掘りしたトンネル)の前五〇メートル位の所で二才年上の兄達と共に何時ものように楽しく遊んでおりました。
頭上で爆音が聞えた時、町の警防団の人がメガホンを口に当て「敵機来襲、全員避難せよ!」と大声で叫び乍ら走り廻っておりました。
私も走って逃げようとした瞬間、目の前で「ピカッ」とフラッシュを焚かれた直後に爆風に押し倒されてしまいました。
大勢の人が我先にと走って逃げていたその時、「信ちゃんが倒れている」と近所のお姉さんが私をおんぶして逃げてくれましたがそのお姉さんの頭からは血が流れて顔面が血で染まっていました。その後その方は頭髪が全部抜けて亡くなられたそうです。空には障子や瓦が突風時の紙くずの様に飛んでいた様子が五十年を経た今でも鮮烈に私の脳裡に残っております。
その時、食糧事情が悪くやっとの思いで求めたお米で母と姉は自宅で「おにぎり」を作っておりまして幸い怪我は大した事はなかった様でしたがせっかくの「おにぎり」はガラスがメチャクチャになって入り食べられなくなり、本当に本当に悲しい思いをしたとの事でした。
家族八名が被爆し、その時の恐怖や辛さはそれぞれの形で心を離れずにおりましたが、特に私は四才七ヶ月と幼かったのですがあの被爆時のショックが大きく、その後夢遊病の状態になり当時二階に寝ていましたので夜中の二時頃にトントンと階段を降り、玄関を出、一目散に走って真っ暗な防空壕の中へ入り、その中でガタガタ震えてしゃがんでいたそうです。そこへ迎えに来た父が私のホッペを「ぴしゃり」と叩いては正気に戻らしたそうです。階下で寝ておりました父母は、毎夜私が小さな足でトントンと階段を降りて防空壕へ向う音を聞いて胸がはり裂けんばかりだったと申しておりました。又その様な状態が四年間も続きましたのでその度毎に「父ちゃん、信雄が又・・・・・」と母はどの位この言葉を云っただろうかと笑いともつかない顔で先日私に語っておりました。辛い、つらい体験です。
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