昭和二〇年八月九日、一瞬の閃光が長崎市民を地獄の底に落し入れた。この殺人兵器を翌日の新聞・ラジオは、新型爆弾と報じていた。
水を求めて皮ふのない身体を半分川につけて息絶えた人、座ったままの姿が地面のコンクリートに焼き付いていた人、蝉取りの格好のまま山中で焼け死んだ子供達などその惨状は筆舌に尽し難いものであったらしい。
市内の小中学校の一部に救急診療所が開設され、救護や被爆者の収容に当てられたが、戦争末期のことでもあり医薬品や衛生器材の不足で診療所はまさに生き地獄の様相であったらしい。
被爆して数日後、私の通学している伊良林国民学校の運動場が臨時の火葬場となり、疎開のあとの取り壊わされた材木を組んで死体の火葬が行われた。荼毘の炎は昼夜の区別なく、天を焦がし、悲しみの嗚咽が運動場一杯に何週間も続いたのを覚えている。
全身を包帯でぐるぐる巻きにした被爆者が、大八車やリヤカーなどで通院している姿が、なぜか、日に日に少くなっていった。「少くなったのは、あなたの小学校に行ってしまったのよ。」と目に涙して母が教えてくれた。
あの小学校の運動場の炎の中から今でも被爆者の悲しい声が聞えるようである。
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