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被爆体験について 
有田 卓司(ありた たくじ) 
性別 男性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
縁側に立ち庭をみていた父に「行って来ます」と声をかけ一階の土間通路を外へ向って歩いていた。
 
その時突然、立てかけた数十枚の畳をいっぺんに倒した様な「ズーン」という重い音がしたと同時に自分の身体が地面に倒されていた。
 
すぐ起き上ったが辺りは真っ暗で何も見えず立ちすくんでいたが、すぐに表通りが急に騒がしくなり悲鳴も聞こえるようになったところで周囲の視界が開けてきた。
 
父の居場所を思い出し引き返したが、そこに父の姿はなく庭の蹲(つくばい)のそばで沢山の崩れ落ちた瓦の間からのぞいている足の先をみつけた。
 
急いで掘り出したが父の顔から腕からの出血が多く、廊下の突き当たりに普段用意されていた三角布で括り、二階に居るはずの母と兄を助けようと崩れた階段を父とともによじ登った。
 
周囲のガラス窓になっていたその部屋で母は身体中に数十個のガラスの破片が入り、そこここが血が染まっていた。
 
兄の天井の梁が頭に当たり頭蓋骨がみえていた。
 
父はその兄を背負うと「早く外へ」と声をかけながら先に階段を下り初め母と自分はあとに続いた。
 
外に出ると向いのお家の大きな銀杏が倒れて道を塞いでいたので逃げまどう通行者は皆、この木を跨いで通る。
 
四人で逃げる道中、あちこちから大きな火が燃えていた。
 
ボロボロの衣服を纏い大きな皮膨れが出来ている人、どこから出血しているのか衣を赤く染めている人たちが口は開けているものの言葉はなく唯、必死に人の流れる方向に足を走らせている。
 
凡そ小一時間で被災した稲荷町から猿猴橋を渡り矢賀の特設診療所に着き診療の順列に並んだ。
 
お腹が一部破れていながら泣きながら親の名前を呼び続けている二、三才の男の子、水をほしがりながら学校の床にころがっている人達も大勢いて救急の腕章を巻いた兵隊さんが種類の少い医薬品を扱い重傷者ばかりの負傷者の一人一人を治療し、手早やに処理していた。
 
兵隊さんの中には自分の腕から出血し布でくくりながら治療に当っていた姿が印象的で今尚、鮮明に脳裏に残っている。
  

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