(被爆前のこと)
被爆当時、私は広島県立広島第一中学校二年生で満一三才であった。学校は広島市内中心部の雑魚場町(ザコバチョウ)にあり、七月までは専ら学校周辺の強制疎開跡の家屋取りこわし作業ばかりやらされていた。
八月一日になって遂に我々二年生にも工場動員の命令が下り、私は己斐(コイ、広島市西部)の広島航空に配属されたが、資材不足でロクに仕事がないこともあり、又もや手なれた疎開家屋の取りこわし作業に行かされる破目になった。
作業は八月六日からで行先は土橋(ドバシ、爆心地より一キロメートルも離れていない)だとの示達のあと、急に明日の六日は休みに変更だと教師に云われた。代りに行ったのが上級生の三年生であった。(後日談になるが三年生は全滅、生存者なし)
(被爆当日のこと)
このため被爆した八月六日は、私は広島市仁保町(ニホマチ)堀越(当時の広島市最東端、爆心地より約六キロメートル)の自宅にいた。
当日は快晴で朝から暑かった。朝早くからのB29の来襲による警戒警報が解除になった上、久しぶりの休みで解放感もあり、納屋の中で母の用事をどれからしようかとのんびり考えていたところ、近所に住む叔母や主婦たちのけたたましい「あれ見んさい、落下傘が下りて来よるよ」「ピカピカ光っとるよ」「そうじゃ、そうじゃ」「何ぢゃろうか」と叫ぶ声で思わず外へ飛び出したとたん、目もくらむような真白な閃光が走りあっと云う間もなく地べたへたたきつけられた。強烈な爆風であった。瞬間「あっ、死んだ」と思ったのを記憶している。起き上って見れば家の窓のガラスは粉々。瓦は飛び壁はくずれ、母が干したフトンはガラスの細い破片が縫糸のようにつきささっていた。それも無数に。そして西の方、広島市中心部の方角からむくむくとまき上る銀色に光る不気味な雲を見た。それも猛烈なスピードで拡がりアッという間に頭の上をおほってしまった。
その内に新兵器の爆発だらうが大きな被害が出たらしいという話が伝わって来た。広島市中へ行って見ると云って親から止められ不安な一日を過した。負傷者が国道を逃げて来る有様がむごたらしかった。
(被爆后の行動)
市中に住む一族の安否を気づかって親類から各家一名の大人を出した救出団に私も加わり翌日七日広島市中に入った。市中の惨状は今更云うまでもない。(何時か記憶を克明に書き留めておこうと思うが少々の紙ではとても足るまい。)さながらこの世の地獄だ。私達の一団が探す一家は全滅したものと認めて解散したあと、私は母校と己斐の工場まで行ったばかりに「よう出て来た」と早速軍の救護隊に徴用された。私のようなクソ真面目な生徒が三人ばかりいた。毎日軍用トラックに乗って市中を廻り、負傷者の運搬と死体の焼却をするのが仕事である。仕事が終ると「明日も来いよ」と云われお国のためだと毎日出かけた。八月一四日までおゝむね毎日全市くまなく巡回した。
水をほしがる重傷者に飲ませてあげると、そのまゝ死んだ人も多い。飲ませたら死んでしまうことはわかっていながら、どうせ死ぬなら飲ませてあげようと云う気持だった。南無阿弥陀仏。
真夏の太陽に照りつけられた死体にたかるハエとウジと死臭のすさまじいこと。一三才の身でよくもあんなことが出来たものだとつくづく思う。仕事の最中に帽子と広島一中学徒隊の認識票をのぞきこまれ「うちの息子は一中何年誰それです。どこにいるか知りませんか」と多くの父兄に聞かれた。中には「あんたは何故助かったんですか」と詰問されたこともしばしばあり、大変つらい思いをしたことは忘れられない。
八月一五日敗戦の日を迎えた。とたんに緊張がとけたのか家でぶっ倒れた。髪は抜け歯グキから血が出て背中に大きな腫物が出来、血尿が出た。一ヵ月寝込んだ。一人の愛国少年が参加体験した大東亜戦争の悲劇の実相である。
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