被爆の瞬間、何が起きたのか判らず、ぼうっとしていたように思う。ふと頬に痒みを感じて手をやると、指がずぶりと入っていった。あたりはガラスの破片と木片が散乱していた。
父と母と、隣りのおばさん、二才の妹、生れたばかりの弟と、山へ逃げた。途中、腕の皮膚がぼろぼろにぼろきれのようにたれさがり、両腕を前にかざして、助けて、助けてと泣きながら逃げていく女学生の数人を見た。
私の頬は大きくはれあがり水も飲めないほどだった。
私達は山へ逃げた。雑木の生い茂る中に蚊帳を吊って、その夜を過した。
闇の上空にはB29の音が聞えることもありみな震えていた。その夜、弟は子猫のなくような声を最後に、死んだ。
久保のおばさんと呼んでいた人につれられて、通学していた己斐小学校(当時は国民学校)へ頬の治療をして貰えると聞いて行った。
校舎へ入るなり私は気が遠くなるほどの恐怖を覚え、逃げようとした。そこはまさに地獄絵画であった。人間の姿をしていない物体が、無数にころがっていた。まだ生きていて、うめき声をあげる人も、わずかに動いている人もいた。赤、青、むらさき、血の色か、唯一の薬の、マーキュロの色か、肉の腐った色か、ぼろぼろに、人にまつわりついているだけの衣服の色か。
校庭には、深く、長い壕が掘られ、数々の死体が焼かれていた。その煙の匂いはまさに人間の焼ける匂いであった。 |