八月六日当日は呉方面より、強力な光と爆風を受け外に飛び出して原子雲を見ました。始めは比治山の火薬庫の爆発にしては大きいと思ったりしました。
当時海軍の軍医でしたので、呉鎮守府の命令で救護隊として火傷の薬を持って衛生兵と共にトラックに乗り西練兵場(爆心地より五〇〇メートル)を目指してやっと到着、救護所を作りましたが次々と集まってくる名状し難い、ひどい火傷の方々の治療をしテントの中に寝かせるのが精一杯でした。亡くなってゆく方もをり、どうしようもない無力感におそわれました。三日間従事しましたが悲惨な毎日でした。当時一人一人の名前と住所を聞いて控えておけば後でお役にたったのにと大変くやまれます。
このような悲惨な場面には二度と会ひたくないものです。
身体の不調と斗ひ乍ら、世界の状態が少しも良くなってゆかず原爆の実験も行われている現状を考え、今迄生かされたことを感謝し、原爆の語り部として余生を送りたいと思ってをります。 |