国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
江口 朝子(えぐち あさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 長崎市(西山町)[現:長崎市] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 専門学校 1年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二〇年八月一〇日が長崎の女子専門学校(長崎市の西山町にあった)の入学式だった。(四月の入学が四ヶ月延期になっていた)入寮のため、友達と四人で、前日九日に到着。直後の被爆だった。ピカッと光った瞬間ゴーと言う音と共にすさまじい爆風が寮を襲った。辛うじて寮は持ちこたえたが屋内は壊滅状態で言葉もなかった。私は後の押入れにあった布団ズックの中に頭から、とっさに飛び込んだので無事だった。一人の友達は、ひたいに、一人は足にガラスが刺っていた。外は砂ぼこりが舞い上ったような、茶色っぽく黄色だった。そして雨が降っていた。校庭にある防空壕に避難する時、町の方から男女の区別も出来ぬ程に全身ねづみ色に火ぶくれた人、背中全面裂け声も出ぬ人、はだしでボロをぶら下げた姿で呆けた様に歩いて来た。運動場にも救護班が出来、怪我人の手当をした。しかし薬は殆んどなかった。
 
一晩運動場で野宿し、翌、早朝「一応帰宅して連絡を待つ様に」との事で山越えして歩けるだけ歩いて行こうと決めた。西山貯水池の辺りから山伝いに、点在する農家の人に助けられ、教えられたりして「長与」の駅に夕方辿りついた。そこでも死体の山があり、むしろが掛けてあった。駅の近かくの役場で罹災証明書をもらって来て、おにぎりをもらいそのおいしかった事は今でも忘れられない。駅には被災者で満員の列車が止まっていた。私達はそれに乗車することが出来た。車内は怪我人が殆んどで肌にふれるとズルッーと皮がむける人が多く痛い痛いという声が満ちていた。車内で亡くなる人も何人も見た。自宅のある佐世保の駅についたのは真夜中だった。歩いて一〇分余り。蚊帳を吊ってねていた両親に「直今!!」と声をかけたらその驚きようはなかった。新型爆弾が長崎におちたというニュースでもうあきらめていた所へ帰ったので幽霊だと思ったそうだ。頭の上から足の先までなで廻して生きていることを泣いて喜んでくれた。帰宅後、下痢が始まり、熱も出た。頭髪も抜け出した。体はだるく、後遺症とはわからず食糧事情も悪かったので、そのためだと思っていた。
 
一〇月の末学校が復校になり改めて学生生活を三年間送った。一枚のガラスもない三年間だった。寮は学校の広い作法室が使われた。エキゾチックなはずの長崎の町が見るも無惨な姿で学生々活。三年間の土台をなしている。(以上)                            

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針