昭和二〇年八月八日迄陣地構築の為、軍に徴用され疲れきって自宅(片渕町二の九)に帰り、本当は幸町の三菱工場に行く筈でしたが、九日は休もうと思って寝てました。原爆が炸裂する前に爆弾が落ちて来る時と同じザーと云う音(多分今思うとB29がエンジンをふかした音だったのでしょう)がきこえたので、あわてて掛布団をかぶりうつ伏せで目の前を少しだけあけて見てますと、それこそ太陽の光の様な閃光が走りましたので布団を再びしっかりとかぶり、多分一分位たってからと思いますが、そうっと布団を持ち上げましたら目の前はほこりだらけ、床の間の壁はつきぬけて裏の畠がまる見え、壁にかけてあった衣類は天井のハリにぶらさがり、障子ふすまなどはすべてバラバラ、てっきりすぐ近くに爆弾が落ちたと思いました。母は台所のある天窓の下の土間に居た様で、天窓のガラスが落ちて来た様ですが無事でした。姉は大浦の方(十人町)の川南造船所の事務所に居たのですが、たまたま外に居て閃光をまともに見た様ですが、夕方には帰って来ました。兄は長崎医大生で朝早く学校へ行った様です。午後から裏山に登って金比羅山の方を見ますと左の方市民運動場の向側の空は濃いねずみ色の中キラキラの光る物(多分紙だったと思いますが)がまっていて、さかんに燃てる様子。家の近くに爆弾の落ちた所もなく、何か変だなと思っていました。三時頃かな(?)県庁から火が出てどんどんこちらへ向って燃え広がって来ました。新型爆弾だと云う噂です。夜になると浦上の方から山を越えて傷ついた人達が帰って来るので一晩中兄の帰りを待ちましたが帰って来ませんでした。どうも浦上の方に新型爆弾が落ちたと云う事で翌日と翌々日の二日間長崎医大迄朝早くから夕方迄探し尋ね歩きましたがわかりませんでした。片渕から長崎駅前そして浦上駅前、医大へと行く道、それはさながら地獄絵そのものでした。眼球は半分飛び出し、手指は宙をつかむ様に折れ曲り、舌を出し、手足を縮めて死んでる人、人、人。爆心地に近づくにつれ胴体はまっ黒の炭の棒、手足の胴体に近い太い骨だけ四本が天を指している死体の山。二日目は眼球、鼻、口とうじ虫が湧き死臭がたゞよいはじめ、三日目はとても行く気にはなれませんでした。二日目だったか、丁度医大の上の方で水をくださいと云う青年(殆んど裸同様の姿で体の色は茶灰色)に出逢いましたが、私は水もなく、住所をきいたのですが島原から徴用で来たと云う工員さんでしたが、書く物もなく、家族にもしらせてあげられなかった事が、今でも心残りです。帰り道畠の向うにある防空壕の奥でこちら向きに足をなげ出して座ってる人が居たのですが、どこも傷ついてないのに死んでました。多分風圧で亡くなったのだと思います。
兄を探し出す事が出来なかったばかりに、五~六年はどこかで生きてるのではと想う毎日でした。母も昭和四一年一二月二六日嬉野国立病院で肝硬変の為亡くなりました。姉は八月一一日頃より嘔吐し、髪の毛も抜けましたが、今でも七四才で喘息になやんでますが、千葉で生きています。 |