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被爆体験について 
三浦 忠次(みうら ただつぐ) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 大橋工場(長崎市大橋町[現:長崎市文教町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
被爆により私は左眼を失明した。残った右眼はずっと私の生活を支えてきてくれたが、やっぱり一眼だけの疲れか、六〇才台から急速に視力が減退し、現在視力〇.〇四という大へん心細い状況にある。
 
カラーテレビが古くなってきて色がにじみ、りんかくもぼやけて白黒テレビに似てくるように、私が眺める外の世界も灰色の世界ではっきりしない。今や過去の体験、おおかた、こうであろうという推測、虫めがねが頼りの行動をしている毎日で、もう少し見えたら良いなあと切実に願っている。それだけに私の戦後は一生来そうもない。
 
当時私は一九才の学生で、勤労動員により、長崎市大橋町の三菱兵器製作所長崎工場で働いていた。
 
一瞬の轟音と共に閃光が走り、建物が粉みじんとなって黒い大きな粒に変わり、空いっぱいに広がって私めがけて飛びかかってくるようだった。
 
その破片は、私の左目、頭に突き刺さり、すごく熱かったことを覚えている。やっとの思いで工場を脱出したが目を開けると痛いので殆んど目をつむったままで逃げ出した。おかげで地獄のような惨状は目撃出来なかったが、悲鳴や叫声、等で充分推察出来た。又女学生の一団が「海行かば」を歌いながら、だんだんと息絶えていくようで、本当に可哀想だった。
 
あの日から五〇年以上過ぎ、平和で過せたのは何よりも幸せと感じている。しかし依然世界の各地では紛争や戦争が起きており心が痛む。平和の達成は本当に難しいことだと思っている。現実に戦時中内外の情勢を把握し、先見力をもって戦争反対を主張し得たであろうか。あの世代の人間として反省させられる。
 
残された者のつとめとして一つの提案をしたい。広島でも長崎でもよい。そこに平和研究機関(国立)といったものを作り、そこから世界各地に情報、研究成果を流すようにしてはどうだろうか。一〇〇年かかっても二〇〇年かかっても良い。それ位難しい問題だと思う。原爆や核爆弾を創出するような優れた頭脳を持っているのだから、その逆の智恵があって良いと思っている。 

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