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被爆体験について 
森本 澄子 (もりもと すみこ) 
性別 女性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は被爆者ですと言うと必ずといっていい程広島ですか?と聞かれる。何故だろう。長崎の事みなさんはお忘れなのかな?被爆当時の話を大変興味をもって聞いてくれる人、まるで関係ないと全く耳をかしてくれない人などいろいろです。原爆投下のその瞬間ドカーンとも、ドーンとも音を聞かなかったと言ってもアンタはボンヤリしているから聞いてなかったんだろうと馬鹿にされることも度々ありましたが、いつだったか徹子の部屋で林京子さん(芥川賞作家)が黒柳さんの問にはっきりとあの時音は聞いていませんと言っておられたので、私の言ってた事も正しかったんだとホットしました。

あの日家に帰る為浦上駅までは何とか行けたもののその向うは全く通れず歩いている人も全くなく、負傷者などはすでに大村の海軍病院のトラックで大部分の人は運ばれたあとでした。煙の向うにボンヤリと丘の上の長崎医大の建物が見えたので家はあの近くだから母も弟も山の方に逃げて無事だろうと思い、勤め先へもどりましたがもうその時、母も弟も死んでます。今の様に物のない時ですからカンパンを手のヒラにのる位もらっただけです。翌日の昼焼けなかった友人がキャベツの炒めたのを三口位わけてくれました。これは大変おいしかったです。物凄いのどの痛さと高い熱とだるさで食欲など全くなかったので食料のないのはつらいとは思いませんでした。

爆心地へ行くのは歩くだけ。ただただ歩くだけ。モクモクとみんな歩きました。途中、友人や先生とあうともう涙涙です。それぞれ現在の自分の状況を話し合い、一人ポッチになった人、両親が亡くなったなど長崎弁で慰め合い又涙、涙ではげまし合って別れました。あの時の友人、先生どうしているのかな――。途中捕虜収容所がありレンガ作りの建物もこわれ捕虜が数人ボンヤリと立っていました。それから間もなく居なくなりましたが、あの人達もトシをとりタマには長崎の事思い出してる事でしょう。

次の世代の人達へ、どんな理由があっても戦争は絶対にしてはいけませんよ。核なんてもっての外の事です。
 
私もトシをとり今年も三ヶ月も入院して健康には全く自信がなくなりました。これもここまで一生懸命書きました。 

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