NHKの近く、御船町、下筑後町の上の山手で被爆、業火に追われて、西坂町の山づたいに寺町の墓で夜を過し、墓のセコを開けて、その夜の空襲のとき、骨つぼのそばに入った。翌朝五時ごろから、すべて砂漠のように焼けつきてしまった中心地を通って、わが家時津町(当時村)へ帰った。
浦上駅の近くで空襲に会い、火の残ったがれきの傍に伏せた。中心地近くの浜口町で黒焦げの人が立ち上って「仇ばとってくれんわよ」と言われた。
大橋の近くまで来ると、まだ生きているらしい人達がかなりいた。大橋を過ぎると田んぼの青いのが初めて見えたので、ほっとした。
城山町の親戚の家族がわが家に逃げて来たが、一四才の男の子は無傷であったのに九月二日(ミズリー号上の調印式)の日に死んだ。七才の女の子は数ヶ月後やはり死んだ。生き残った城山の家族のために、私達は、その焼け跡にバラックを建てた。リヤカーで材木を何回も運んだ。町は死臭で歩けないほどであった。黒焦げの人が、青い「うみ」でおおわれ、うず高く重なっていた。毎日、粥とさつま芋で過した。 |