当時私は、広島県因島にある日立造船所因島病院で看護婦をしていました。原爆投下二日後の八日から一三日まで六日間を救護班員として広島へ入市医療に従事することになるのですが…。
八月六日の朝は因島の対岸の生名島の分院で当直明けを迎えました。八時頃から交替の来るのを待ちながら海岸に出ていました。静かに寄せ返す波を見つめていたのですが突然、何時もの聞き馴れた金属音がして、遥か西方の空高く遠く本当に小さく、B29が銀翼を輝かせながら飛んでいました。空襲警報のサイレンも鳴らないのに、早朝から何処へと、思いながら見ていました。その頃に広島があの惨状になっているとは知る可くも無く…。後々に私はそのB29が、原爆を投下したものと信んじ、こだわり続けることになるのですが。
明八月七日出勤間もなく広島の国鉄機関区に勤務している筈の弟が、足にガラスが刺り煤で全身真黒い姿で病院へ訪づれた。開口一番「広島は全滅した」と当時情報は全く途絶えており、第一報は弟からのものでした。
八月八日、因島警察の指揮の許、因島七ヶ町村の警防団、そして私達救護班が救援隊を編成、夕闇のせまる頃私達の乗った列車が始めて、広島のホームへ着くことが出来た。彼方此方で燃える炎に見える広島の市街は跡形もなく瓦礫と化し道路だけが白く広くガラスの破片が光っていた。その前方には赤く焼けた電車が一輌停っていた。多勢の人達が乗って居たであらうに…。
程なく私達は指示により横川の救護所本部へ行くことになり歩き始めた。暫らく行進した頃、燻ぶり続く煙の中から老女の子供の名前であらうか、泣きながら絶叫している。着物は乱れ、今にも倒れんばかりに、もう二日も経っていると云うのに。それぞれ他人を構う余裕は無く、この世のものとは思えぬ凄惨な生地獄を見る思いでした。その声は私達が遠く去る迄聴こえていました。
横川の本部に着いた時は夜も随分更けていました。救護所の内外共、床そして道路の石畳の上にも沢山の人達が横臥えていました。石畳に薦を被った少女が震えながら「怖い、朝はまだですか」小さな声で泣き疲れたのか、もはや泣くことさえ出来ないのか、再び空襲を恐れる姿に今更ながら戦争の非情さに胸がつまりました。
八月九日から国民学校へ行くことになりました。往復の道端には、元自分の家だったのか居場所を知らす、トタンや板切れが立てられ、又何処へも行き場がないのか母娘らしき二人連れが防空壕とは名ばかりの小さな穴から出て来た。手には、焼けて、変型した鍋を持って、炊出しのオニギリでも貰いに行くのか…。漸く学校に着いたが、校舎の二階は斜に落ち又、いつ落下して仕舞うか解からぬ様な隙間には沢山の人達、間を縫って治療に廻る。背中一面、ガラスの破片が突刺り横になることすら出来ない。四日も経っている為、傷口が小さくなり、その場で抜き取る事は不可能な状態になっていた。火傷の為皮膚は崩れ蛆虫が化膿した膿を食べている。除去しようにも「痛いけど蛆が膿を食べて早く治るから」と拒否する。火傷の塗布薬とてなく、治療にと渡されたものは椰子油でした。充分な医薬品はなく、水をほしがりながら亡くなる人、今歩いていたが、突然倒れてそのまゝの人、早流産した胎児が、胎盤と共に机の上にいくつも並べてある。側では幼児が、オニギリを頬張っている。死亡者は物体を扱う如く大きな穴にほうり込まれ焼かれる。その臭い、遺体の腐乱臭、あらゆるものが発する臭いにも皆何時しか馴れ、考へている暇はない。その間満洲にソ連が、長崎に又新型がと聞き、日本も、もう終りだと、本当に戦争の非情悲惨さに打ちのめされた思いでした。
それにしても七月の連日空襲警報発令のさなか、近所に、輸送船の船員(アメリカ育ち、摂津丸の事務長)と云っていた若い船員が、灯りを消そうともしない。注意すると、彼は「電灯消しても無駄だ、日本は八月一五日負けて戦争は終る。」と言った。そして、広島から帰りて二日後、その言葉通り現実のものとなった。何等かの情報を得ていたのであらうか。それならば何故、終戦前一〇日足らずの間に、一発で二〇万人の命を奪う原爆を投下しなければならなかったのか。何等かの努力によりそれは避けられなかったのか。終戦が解っていながら、急ぎ使用したのだらうか。現在、実験的に投下した様、報じられているが、ならば尚更許されない。
六日朝見たB29と、この船員の言葉は、戦争の悲惨さと共に、重く残っている。
二度と戦争の悲劇を繰返すことなく永遠の平和を願うと共に、亡くなられた方々の御冥福をお祈り致します。
合掌 |