昭和二〇年八月九日、長崎に原子爆弾が投下された当時、私は一二才で長崎商業学校の一年生でした。
原爆が投下された当時、竹の久保の我が家には、母の伊達マスミ・姉、伊達秀子(活水女学校四年生)と私の三人住まいで、九日の朝は姉と私と二人で朝早く家を出て姉は三菱造船所へ。私は家から七~八キロ離れた甑岩から、さらに登った所での塹壕掘に従事していました。其処で私は原爆を体験し、伝令の方により浦上方面が全滅らしいと知らされ、友人の宮崎洋氏、黒岩国雄氏等と下山し、宮崎氏は夫婦川町、黒岩氏は西山町の為、途中にて別れ私は長崎駅前から火の海の中を腕の腕章を外し、それを水に浸し口に当てながら、岩川町を通り竹の久保の自宅へと向いましたが、竹岩橋迄にやっと辿り着き渡ろうとしましたら、橋は川の中へ落ちて渡れず、再び、浦上川沿いに引き返し五厘橋を何とか渡り、再度、浦上川沿いに足を進め、やっと自宅の側まで、たどり着きましたら、家は焼けて無く、我が家の防空壕の横には、黒焦げの遺体が幾つも転がっており、母かと思い駆け寄り確認しましたが、別人でしたのでそのときはほっとしました。そこで、周囲をさがしましたら、共同防空壕の横に母と姉が、悄然と佇んで居るのを見つけ、母と姉に駆け寄り、抱きつき、無事を確認しました。母は頭に怪我をしており傷の手当てを受けたのでしょう頭に包帯を巻いておりました。姉は造船所へ向う途中、警戒警報が発令された為自宅へ引き返し、家が倒壊し下敷きになり、救助隊の方に二人共、助け出されたとの事でした。
原爆当夜は、母と姉と私の三人で共同防空壕に寝泊りし、翌一〇日朝に大村の海軍病院へ行くべく、母、姉、私の三人で、大橋まで歩き、丁度、汽車が来ましたので、その汽車に乗りましたが、汽車の中で、大村の海軍病院は負傷者で一杯だとのことで、諫早駅にて下車し諫早中学校迄歩き中学校に収容されましたが、治療らしい治療も出来ず、だんだんと食事も喉を通らなくなり、母は八月一六日の朝にこの世を去り、姉も母の死のショックでか、一八日にあの世えと旅立ちました。私にとりましてこの一週間は一生忘れる事は出来ません。又、二度とこんな悲惨な事が起きないよう祈るのみです。 |