私は昭和二〇年八月六日、西部三部隊の伝書士として朝の七時三二分の列車で、出雲今市駅より広島軍管区に向ひました。木次線、芸備線に乗り替え、矢賀駅に着いたのが夕方の五時ごろと思ひます。線路づたいに広島駅に来ましたら、火災の最中でした。軍管区に行く任務のため、あちらこちらを歩きましたが、その日は行けず、最終の汽車で十日市まで帰へり、被爆者の人と一夜を明し、明る七日に又広島に行きました。焼けくすぶる市内を死人の間を通り、悪臭の中を軍管区をたずねました。メチャメチャでした。大木は倒れ、馬や人は焼けただれ、見るも無惨なものでした。
それ以来、数十回広島に来て宿もなく、テントの中で休んだ事もありました。その内に体中にノミのかんだあとの様なはん点が出て、体はだるく弱りました。
一二月に復員はいたしましたが、夜中に鼻血が急に出たり、白血球が減少したりいたしました。
直爆を受けた訳でもないのに、こんなにまでも影響があるとは実に恐ろしいものです。
まだまだ詳しく記したい事がありますが、紙面の都合上簡単に記しました。悪しからずごめん下さいませ。 |