故 山本真澄の父 山本康夫
熱線を受けた皮膚が、百余日もたって火傷するとは、どう考えても信じられないが、あの戦災当時、戸外にあって、ちょうど帽子を吹き飛ばされたとき、ある熱さを覚えた頭部に、一面火ぶくれが出来た以上、明らかに原子爆弾の火傷だ。
体がだるく、睡気を催して来るので、検温して見ると三十八度五分である。患部がぴりぴりして来る。床につくと、同じ原子爆弾で焼き殺された長男の姿が、次々に思い描かれて来る。県立一中の学徒集団作業に行って、あの爆弾に遭い、(作業地は爆心地と認められる地点からほど遠からぬところであった)二時間後、全身焼けもくれて帰って来たときのいたましい姿に比べると、これくらいの火傷など物の数ではないと思った。ほんとうに、あの子は精魂こめて育てあげた子供であった。文字通り熱愛の結晶であったのだ。
二人あった子供のうち弟の方は、前年の暮に、七歳を一期として配給の鑵詰中毒で急死せしめ、みずからを再起できるかさえ危ぶむほどの打撃を受けて一年もたたぬうちに、「お前ひとりだからね、生きておくれよ、この戦争を無事で生き抜いておくれよ」と祈るように言っていた残る一人の子まで、戦争は強奪し、学校に入学するまでの十四年間の僕のよろこびは、あまりにもはかない幻に過ぎなかった。
広島戦災の日は、急に思い立って、途中所用をはたすべく、いつもの出勤道とは反対の方向へ自転車を走らせた。間もなく低く爆音を聞いたが、警報は解けたばかりだし、ちょっと気になる音ではあるが、B29はもう少し金属性のようでもあると強いて思いながら、ちょうど自転車にかなりの荷をつけていたので、朝晴れの夏空を仰いで見ようともしなかった。その当時はすでに、外機に対しては、それほど横着になっていた。また、一機や二機の昼間飛来に一々神経をとがらしていたのでは、何一つできないという考えに皆馴らされていたのだった。
それからものの二分もたたぬときだった。目の先五、六間のところに、滝のような火柱が落下したかと思うと、百雷の崩るるがごとき大爆発音が起った。僕はしまったと思った。てっきり、さっきの機音は外機で、広島上空通過の際、気まぐれに落した盲弾が、運悪く、この附近に落下したのだと思った。
直撃ではないが、こう近くては、大負傷か、悪くすれば助からぬかも知れない――しまったなあという観念がひらめいたのとほとんど同時であった。自転車に異様なショックを覚えるとともに、僕は一度高く跳ね上がり、一、二回空で旋回したようであったが、次の瞬間、真暗い物蔭に投げ出されていた。僕はそこでしばらく目を瞠った。ついで頸から胴、手足とさすって見た。どこもやられていないことはたしかだ。気づくと、そこはコンクリートの塀の中で、頭の上に布団が干されてあることを発見した。僕は本能的にその中にもぐり込んだ。
真暗いところと思ったのは爆弾の煙であったらしく、やがて眼界の黒いものが霧散すると、あたりは想像を絶する狼藉の跡が現出した。しかしそこはあまりにも生命を保護するに――むしろ仏天の加護ででもあるかのように――都合よくできていただけに、再び外へ出たときの驚きは大きかった。
人界の騒ぎが堰を切ったように流れて来た。異様な女の叫び声、家族の名を呼び合う声、火のつくような子供の泣声が錯綜して起った。
僕は、壊れたまま転がっている自転車を引きずって歩きはじめた。白日の下に血みどろになって倒れている者を起してやるものもなかった。
「この怪我人はどうするのか、この組の救護班はどこにいるのか」と叫んでいるところもあった。
しばらくすると、駅の方角から小走りにやって来る一団がある。ほとんどはだしだ。皆、顔は恐怖に戦いて蒼白である。全身血まみれの者、いまだ血の止らぬ傷口を手で押えて走る者、跛を引く者、髪の毛を半分ほど焼かれている者など、次々にやってくる。
僕は負傷していないらしい一人に近づいて、「爆弾はどこに落ちたのですか」と聞いた。
「どこか知らんですよ」そんなどころかといった口調で、その男はどなった。
これはおかしいぞ、爆弾が落ちた個所を語っている者が一人もいない。一体どこがやられたのであろう。駅のあたりは一面火の海である。あの昼火事といまの爆弾とは関係があるものであろうか。あたりの家という家はことごとく半壊状態で、屋根は吹き飛び、柱は折れ、よい方でも瓦はすっかりもくれて片よっている。家のこと、子供のことが気になりだした。
塀が倒れ、庇が落ち、雨戸、障子などが散乱している道をよって、やっと家の近くまで辿りついたが、家の破壊程度はどこもほぼ同じくらいである。小路の角を曲って急いで自分の家を求めた。
やはり駄目だ。壁も戸もない。三階が傾いたままのっかっている。白布で巻いた腕を押えながら、妻が出て来た。ちょっと笑って、「あなたはどうでした」といったので、ひどい怪我ではないことが知れた。
家にはいって見ると、部屋の中は、障子や天井板、ガラスの破片がうず高く積っている。
「真澄はどうだろうね」子供のことがひどく気になりだした。殊に今朝は、疎開跡の勤労作業があるといって、警報が解けると、いつもより早く、いそいそと登校したのだった。
「迎えに行って見ようか」「でも、あの辺は大丈夫ではないでしょうか」そういう妻の言葉に、僕も一脈の不安はあったが、被害は東部だけだろうと考えられたし、迎えに行こうにも、行き違いになったらなんにもならないと思い返して、中止することにしたが、何から手をつけたらよいか見当もつかないまま、茫然と時を過すのみであった。
「まあお気の毒ですね、あなたはどこの方ですか」外の方でそういうらしい声が聞えた。「山本です」たしかにそれは子供の声だ。「山本の坊ちゃん? まあ……山本さん、山本さん……」
僕は夢中で外へ飛び出した。まさしくそれは長男の真澄に違いない。しかし、なんという惨い姿であろう。全身の皮膚はむけてしまって、赤い裸体が、そこに立っているではないか。毛髪はすっかり焼け、顔はぶくぶくに火傷して、どう見てもわが子の面影はない。直感というものがなかったら、恐らくわが子であることを否定したであろう。近所の小母さんが、どこのお方ですかと聞くのももっともである。
「真澄、真澄かね、ひどい目に遭ったね。だが、よくもお前は帰って来てくれたね」子供は万感胸に迫るという風に、「ハイ」といった。
僕は妻を呼んだ。「アラ、どうしましょう。これは大変だ」妻はかけよったが、ただはらはらとしていた。
ともかく二人で部屋の一隅を片づけて床をのべ、寝かせることにした。腰に半分焼け下がっているパンツを、妻は鋏で切り取った。靴をぬがせ、ボロボロに焼けたゲートルを解いてやるとき、子供は「僕は死にはしない?」といった。
「大丈夫だ、これくらいで死にはせんよ」一つには自分への心のやりばとして僕はそう叫んだ。
「一体、爆弾はどんなものだったかね、普通の爆弾かい?」今日の爆撃の様子が腑に落ちないので、重傷の子供に聞いて見た。「いいえ、爆弾ではありません」「焼夷弾かね」「焼夷弾でもありません、何か別のものです」と答えた。するとこれは、高性能の新兵器かも知れない。僕の頭は好奇と疑惑とに閉された。
僕ら夫婦は、隣の主人に手伝って貰って、子供を戸板にのせて十丁ほど離れた壕内の軍救護所に連れて行った。途中、空襲警報が発せられたが、待避どころではなかった。救護所はすでに重症者が詰めかけていて、いつまで待っても順が来ないまま、入口で治療に当っている一人の軍医に見せ、油を塗って貰った。深く切れ込んで肉が外へはみ出している腕の傷は「それくらいは放っておけば治るよ」といってとり合ってくれなかった。
しかたがないので、再び戸板にのせて連れ戻った。途中ひどく水を欲しがるので、用意した水筒の水を与えた。苦しそうな息づかいが痛々しかった。
家にねかせると子供は「どこにももう行かないよ」といった。それからやや気が落ち着いたらしく、きょうあった一部始終を物語った。その口から語り出されることは、すべて悲惨で恐ろしいことばかりであった。
「そこからお前、よくも歩いて帰って来てくれたね」
「お父さんやお母さんに会いたかったから、夢中で地獄の中から抜け出して来ました」子供ははっきりとそういった。
夜になると、気分はさらに平静になったようであったが、水をしきりに欲しがった。あまり与えてはよくないと聞いていたが、妻はおろおろしながら、いうままに与えた。
うわ言をいうこともあるが、意識も言語も明瞭なので、失望はしなかった。外の方で、比治山公園の向こうの街は朝からまだ燃えている、大変な火災だ、と語り合う声が聞えたが、出て見る気にもならなかった。妻が溜息をもらすので、「興奮してはいけないよ」とそれをたしなめながら、子供の傍に横になったが、もちろん眠れはしなかった。
その夜の十一時ごろであった、子供はかすかな息の中から、「ほんとうにお浄土はあるの?」と妙な質問を発した。僕はぎくりとした。妻もちょっと狼狽した様子であったが、「ええ、ありますとも、それはね、戦争も何もない静かなところですよ、いつも天然の音楽を聞くような、とてもいいところですよ」と、かねて聞き覚えの浄土の壮厳についてくわしく説明した。
子供は恍惚として聞き入っていたが、「そこには羊羹もある?」と反問した。この無邪気な問はさらに僕を驚かした。「ええええ、ありますよ。羊羹でもなんでも……」声をくもらせて、やっとそれだけ妻が答えると、「ほう、そんなら僕は死のう」といった。僕は溜息ももれなかった。妻も石のように黙った。子供は口のうちで念仏を唱えていたが、もうそれからは水ともいわなかった。僕にはまだ、それでも子供が死ぬとは考えられなかった。妻は「大丈夫でしょうか」と幾度も呼びかけたが僕は持ち直してくれるかも知れないと呟いた。
しかし、そうした念願もすべて絶たれるときが来た。子供はその夜正十二時、私ら両親に見守られながら、実に安らかに息を引きとったのであった。まことに立派な往生であった。それはまさしく、羨ましいほどの死に方であった。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)七〇~七六ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 |