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死のうわごと 
大土 省三(おおつち しょうそう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
故 大土茁の父 大土省三

めぐり来た八月六日を迎え、当時を追憶、一人感慨無量である。妻と次男孝(国民学校六年)を、四月に、郷里に疎開させて、長男茁と父の私とは、広島市にふみ止まり、わが家を死守することになった。いや、学徒動員と現地徴用とで、そうしなければならないことになっていた。朝は早くから、夜は遅くまでの勤めで、二人がゆっくり話し合えるのは夜だけであるが、親子互いに相励ましながら、勝利の日をと祈り続けていた。
 
八月六日、いつもと同じように、朝六時には茁も家を出ていったが、その朝は、多少腹具合が悪いらしかった。虫の知らせというか、無理にでも欠席させようかと思った。しかし、ここで親の私が子供の意気をそぐようなことはよくないと思い直し、出かけて行くままに任せた。二階から見送っていた私に、手を振って元気で出ていった。
 
忘れようとして忘れ得られぬ午前八時十分、工場でいつものように事務をとっておった時、突然、強い閃光とともに、物すごい爆撃の音が波状的に襲って来た。屋根も窓も壊され、瓦やガラスが飛んで来る。一瞬、私の工場だけがやられたのだと思った。直ちに防空壕に待避して形勢を見ておるうち、県庁方面で黒煙濛々と大火災を起し、爆撃の中心はどうやらその方面のように思われた。
 
すぐ気にかかったのは長男のことであったが、動員が己斐の航空会社で、己斐方面は大丈夫だろうと安心した。が、考えてみると、己斐もここと同様、あるいはかなりの被害があるかも知れないと早速自転車で走った。
 
すぐに、会社の方に長男の動静を聞いて見た。瞬間、私は卒倒せんばかりに、「しまった」と無意識に大声をあげた。それは、土橋の疎開作業に行っておると聞かされたからである。
 
わが子の様子を案じ、正午頃には観音橋に足を運ばせておった。警防団の人々が、市中にはいって行くのを止めた。しかし、私はその制止をきかなかった。子どもの死に代えられるものかと、無理に市内へはいって行った。
 
途中、何遍か窒息しそうになった。土橋の作業場附近を何度となく探し歩いたが、結局、見つからない。
 
いたいけな子供、学徒または大人が、ヨードチンキを塗っておる。それにしても、どこでぬって貰ったのだろうと、はじめのうちは不思議に思ったほど、誰も彼も身体中の皮がぼろぼろにさがったまま、親を、わが子を、また避難所を、さがし求めて力なく歩いておる。乳呑み子を抱いたまま倒れ、馬車馬の手綱をとったまま馬ともどもにころがり死んでおる者もいる。実に目もあてられない、全くこの世ながらの地獄絵図、そのままである。
 
水筒に入れていた水も、求められるまま、そちこちで少しずつ与えて歩いておるうちに、少なくなった。
 
茁も、どこかでこんなようになっておるのではないかと思うと、立ってもいてもおられない気持になる。どうか家に帰っていてくれればよいがと、それのみ念じ、ようやく午後七時頃家に帰った。
 
すぐさま隣の人に、茁は帰ったでしょうかと聞いてみたが、無駄だった。大内越峠を田舎へ田舎へと逃れて行く人を眺めながら、ただため息をつくのみであった。その夜は、どこかで倒れ死んでおるわが子を想って、一睡もできなかった。
 
翌朝、友人の矢野氏が、力尽きておる私を励まして、早朝から一緒に担架をさげて落雀の炎暑をも物ともせず、探して歩いてくれた。被服厰、兵器厰、千田町、江波と、収容所という収容所は片端から探し歩いたが、見つからない。顔や身体つきの、わが子にそっくりの、死に倒れておる他人の子供を、何度かわが子の遺骸とあきらめて連れ帰ろうかと思ったことか。しかし、またしても矢野氏にはげまされ収容所を探し歩いた。
 
最後に、己斐国民学校で今までと同様、大土大土と二人が呼ぶ声に、「ハーイ」という返事がした。最初の「ハーイ」は、なんだかうそのような気がした。また、大土とよんだら、はつきりと、「ハーイ」と返事がした。二人は、南北に別れて探しておったが、互いに「おったよ、おったよ」と叫びながら、返事した二階の一室へかけ上がった。
 
見ると、同じような学徒が一ぱい寝ころんでおる。いや、寝たまま次々と死んでいっておるのである。その中に茁は、私か近寄ると、さも嬉しそうに、「お父さん」と元気よく呼んだ。「よかった、よかった。もうお父さんが来たから大丈夫だぞ、元気を出すのだぞ」と、いう言葉の下に、「ハイ」としっかりした返事だ。

「昨日、家の近所の人に、ここで会ったので、茁はここに収容されておるから、お父さんに迎えに来てくださいとお願いしておいたのだが、待っても、待っても、お父さんが来られないので、もしやお父さんが爆撃をうけられたのではないかと心配していました。お父さん、よかったですね」と、私の無事をよろこんでくれた。
 
「おなかがすいただろう、何か食べたいかね」と尋ねると、「お父さん、警防団の方から昨日カンパンを貰いましたが、まだ食べておりません。別に今ほしくありません。ただ、水が飲みとうてたまらなかったのですが、もし水を飲んだら死ぬるということを聞いたので、お父さんに会うまでは、決して水を飲んではならないと、一生懸命我慢しておりました。ここに列んでおる友達は、よう我慢せずに水を飲んだので、死んでしまいました。僕は、ああ、よかった。それからこの繃帯は、(顔面と手頸にずっと繃帯をしてもらっておった)軍医さんが、君は一中の生徒だね。僕も一中の出身だ。一中の生徒はしっかりするんだ。大丈夫だ。僕が繃帯をしてやる、と大変に親切にして貰いました」と子供の目にも、親切に手当をして貰った感謝と、父に迎えに来て貰えたよろこびの涙が浮んでいた。どんな不具になっても命さえ助かってくれたらと、私はじっとわが子を見つめ、親子全く涙の対面であった。矢野氏は、この情景を恐らく涙で見ていたであろう。
 
「矢野さん、あなたのお蔭でこの子を見つけることが出来た。あなたがいなかったら、あの子を見つけることは出来なかっただろう。ありがとう、ありがとう」と私は、矢野氏に心から感謝した。
 
己斐の知合いの家で、大八車を借りて、真暗な、しかもどこが道やら分らなくなった焼野の市内を迷い、迷い、家についたのは、夜中すぎであった。
 
それからは、医師に診て貰うことも出来ないまま、二日二夜の間、必死の看護を続けたが、努力の甲斐もなく、九日夜半、ついに、「おい、増田君、生産命令が出た」とうわごとの中にも、若き学徒の純情があふれ出ておるはっきりした言葉を最後に、ようやくかけつけることの出来た母の手を確かとにぎって、この世を去って逝った。
 
次に掲げるのは母の詠じた歌である。

   人と居れば何変るなき吾なれど

      一人の部屋に子を恋うて泣く

   良き母とならむ願いひたすらに

      歩みこし二十余年のただ空しかり

出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)八一~八五ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】 

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