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燒けついた学帽 
秋田 正之(あきた まさゆき) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業 公務員 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
故 秋田耕三の父 秋田正之

耕三は、幼い時は非常に癇癪持で、時にはもてあましたが、明るく強く、正しく育てた甲斐があって、希望の広島一中に入学出来た。質実剛健なる校風に副うべく、家庭でも非常に注意した結果、情誼にも厚い中学生を育てることが出来た。
 
耕三の希望は将来、医学の道であった。それが、彼の分に応じた道だと、彼も私も考えていた。しかし大東亜戦争は、この幼い中学生を兵隊に駆り立てた。「僕も幼年学校に入る」と、彼が覚悟をしたのは、日本の敗戦も間近い頃であった。それもよいが、問題は戸籍謄本である。耕三は私たちの養子であった。永遠の秘密とは考えないが、いま、これを知らすことが、少年の心にどんな影響を与えるか、私は思わず全身に冷たいものを感じたのである。「とにかく私が志願書を持って学校にゆきます」と妻が教室を訪うと、意外――二十人ばかりの生徒が立たされて、厳しい訓示を受けていた。

「秋田君の行動は誠に恥ずべき行為です。教官として許せません。いま帰したから本人からきいて下さい」と先生は非常に興奮しており、けんもほろろの挨拶であった。それよりさき耕三は、いつもの元気にひきかえ、裏口からしょんぼりと帰り、私の前に坐り、お父さん、僕、学校がいやになった、とさんさんと泣く耕三をみて、ことの重大さを感じ、心を落ちつけて話せ、と云った。そのうち家内も顔色をかえて帰って来た。
 
「今日、教室で皆が騒いだ。朝、先生が軍人勅諭の試験をやるから皆に伝えよ、と連絡係である僕に連絡を頼まれたのです。その時間に先生が来られなかったので、生徒が騒ぎ出したのです。ところが、その張本人が結局僕だという証人が二人出た。先生は僕を打つ、殴る、の始末です。しかし僕は騒がぬものは騒がぬのですから徹底的に調べて下さいと頑張ったのです。すると、文句をいう奴は、退校だ!というのです」と、口惜しそうに耕三はいった。
 
「いいよ、お前は私の願う通り正しく成長していたのだ」私は心のうちに何か明るい世界をのぞいたような気がした。「原因はお前だとするなら、よろしい、お前の正しかったことを先生の前に立証せよ。もしそれが容れられないなら、学校をやめて職工にでもなれ、お父さんも市会議員をやめて、呉の職工になろう」
 
その夜、私は一人、宿直に先生を訪れた。そして、耕三の生い立ちと性質、将来の希望を説明したが、「何もいえません。明日学校によこして下さい」ということで別れた。
 
翌日、耕三も退校を覚悟で登校した。先生は一言「正しく強く勉強せよ」といっただけで、授業についたそうである。先生もその間の事情をよく調べられたとみえ、帰る時は級長の辞令を渡された。昭和二十年五月頃の出来事であった。
 
昭和二十年八月六日、爆風のため私は三間ほど吹きとばされて、家の下敷きとなり、頭に怪我をし、体にたくさんのガラスの破片をうけて全身血みどろとなった。しかし、私の頭にあったのは、ただ学徒動員で己斐の航空機工場に学徒隊の班長として勤務していた耕三の身の上のことであった。その時はすでに、広島市は一面の火の海、炎の波が、悪魔のようにのたうっていた。
 
「とても駄目だ、三篠橋も渡れない」仕方なく、あの長い鉄橋を渡り、一応、町の救護所となっていた祗園町に向かったが、至るところにうめき声を聞いた。夫を呼ぶ声、妻を呼ぶ声、わが子を、兄弟を呼ぶ声、しかもそれは死にものぐるいである。すでに息絶えんとしながらも、なお最後の呼吸を吐きしぼって、わが子の名を呼ぶ父、そして母の声である。
 
「耕三……秋田耕三……一中の秋田耕三……」私も叫んだ。死にもの狂いで叫びつづけた。累々と横たわる死骸、それにつまづき、つまづきながら、倒れながら、水を、という死の声を聞くのである。
 
ああ、私は完全に、人間最後の叫びの中に抹消されそうであった。しかし、子供のことを思うと、休まれない。勇気を起して、杖をたよりに、己斐ヘ! 己斐ヘ! と歩いた。
 
工場は、死体収容所になっていた。プーンと人の肉の腐る臭いの中で、五、六十人がうめき叫んでいた。誰の顔も目茶苦茶にくずれている。人間の形相というものはない。「色の白い子です。足の白い子を呼んでみましょう」という妻と一緒に、耕三! お父さんです。一中の秋田耕三! お母さんです。秋田耕三はいませんか……と気狂いのように、あたりをかけまわった。せめても生きていてくれという願いで、一杯であった。
 
その時、「お父さんですか? お母さん」という耕三の声であったが、それはすでに、若い少年の生命が消える最後の声であった。
 
「お父さん、すみません。お母さん、すみません……。はじめは四、五十人で、頑張れ頑張れといいながら帰ったが、旭橋の上で後ろをふり向いて見たら十四人しかいなかった」と耕三は、もうたえいりそうな声で、
 
「みんな死にました……」
 
昭和二十年八月七日の朝、まだ広島市は火の海であったが……耕三は、一中の学友とともに、静かに死んでいった。耕三の焼けただれた頭に残った一中の学生帽のあとが、いまも私の眼にはっきりと残っている。

出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)八六~八九ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
  

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