故 池田昭夫の父 池田武夫
昭和二十年四月、米軍は沖縄に上陸し、戦は緊迫さを増して来た。この時不思議にも、山県郡太田部六ヵ町村から、申し合せたように、一人ずつ、憧れの一中に入学した。一ヵ月、二ヵ月たつにつれ、一中精神は際立って身についてきた。伝統の尊さに驚異の眼を見張って、心ひそかに将来を嘱望したのは、私一人ではあるまい。
昭夫は、小さい体に大志を抱いた頑張りボーイだったので、布駅から戸河内まで十里の道を徹夜で歩き、しかもキリンビール社長の息子から貰ったビール二本を背負って帰り、私を喜ばしたこともある。六、七月に一ヵ月の帰省期間があった際に、「広島は大爆撃に遭うからその後に帰れ」といってからかったら、「寄宿舎を守るのが僕らの責任だ。そんな卑屈なことで祖国の運命は――」とやり込めた。
八月六日には、一年十三学級は、鷹野橋附近で建物疎開に奉仕していた。原爆惨禍の甚大な情報を刻々耳にしたが、時を同じくして私の引き受けていた竹屋校疎開学童に多数の腸チフス患者が続発し、女先生も死亡したので、これが応急処置のため、愛児のことは放棄する苦衷にあった。そこで妻が一縷の望みを抱いて、八日に出広した。幸いにも似島にいることが判明し、翌九日駆けつけた。検疫所の桟橋や広場には幾百の死体が横たわり、何十という建物には負傷者が一ぱいで、呻吟苦悩して悲惨の極である。
血眼になって探し廻り、やっと最西端の建物で、愛児に逢ったが、一時間前に、母を父を慕って、待ちこがれながらこときれたとの話で、がっかりした。妻は人目も恥じず、乳房を口に当ててやって泣きくずれた。しかし、受持看護伍長の佐々木盛雄さんが同郷のため、リンゲルを三本もうって特別な治療をして戴いたので、遺体もない多くの方々に比べて、まことに幸福な最期であり、感謝している次第である。
右食指を酒精漬にして持ち帰り、故山に葬った。
出典 『星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集』(鱒書房 昭和二九年・一九五四年)一三六~一三七ページ
【原文中には、ジェンダー、職業、境遇、人種、民族、心身の状態などに関して、不適切な表現が使われていることがありますが、昭和二十九年(一九五四年)に書かれた貴重な資料であるため、時代背景を理解していただくという観点から、原文を尊重しそのまま掲載しています。】
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