昭和二〇年一月から海軍徴用船に乗船、呉、長崎に於て、グラマンの空襲には幾度となくやられ、我々若者は怖さには麻痺していた。
当日は長崎港の奥の方で錨泊していた。
私は汽缶室で整備作業中、すごい閃光に驚き、甲板上に出るべく階段を急ぎ昇っている時、船体に大きなショックがあった。汽缶室もホコリで前が見えない状態になった。
甲板上に出てみると皆んな呆然としたまゝ町の方を向いていた。長崎市全体から土煙りが上りだんだんと全体が暗くなり、しばらくするとあちこちから火の手があがってきた。
船には損傷はなく、負傷者もなかったが、何も解らないまま怖さだけが残った。
二、三日して火傷の為、体の方々が黒づんできた者も出て来た。歯ぐきからの出血もあった。
終戦后全員解散したので、その后の生死は判りません。 |