陸軍特別甲種幹部候補として宇品町の陸軍船舶練習部に配属中被爆した。
当日は朝から焦げつくような暑さで、八時の朝食を終った直後のことであった。「ピカッ」と物凄い閃光と爆発音と同時に強烈な爆風を受け、慌てゝ防空壕に逃げ込んだ。
救援隊が編成され、市内に向ったが、倒れた電柱、飛散した家屋や瓦の破片の中で、火傷で爛れた人、血だらけの怪我人、半裸や着のみ着のままの被災者、泣き叫びながら蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う姿は余りにも無惨で直視できなかった。火傷者や怪我人を背負って近くの学校等に運んだが、倒れた家の下敷になっている人の救出は、手作業で能率も上らず、身近かに迫る火焔に両手を合わせて冥福を祈り、次の作業に移る始末だった。
薬も救急品も届かず、唯収容するだけで精一杯だった。収容された患者は手と足を宙に上げ「いたい」「痛い」「水を呉れ」「助けて呉れ」と阿鼻叫喚の渦と、独特の異臭の漂う収容所は地獄さながらで、時間の経過とともに屍体は山となった。
その夜は露天にそのまま横になったが、余りの惨状に呆然自失。誰一人として語る者も居らず、眠る者もいない沈痛な一夜であった。
男女の区別のつかない程の黒焦げの屍体、防空壕の中で蒸し焼きになった屍体、川に漂う膨れ上った水死体等々。これらを一ケ所に数十体積み重ね爆風で飛散った柱を燃料に焼却したが、明りが全く消えた広島の夜空は、人を焼く火焔で真赤に染る程だった。
翌朝遺骨は新聞紙に包んで市役所に届けたが氏名は殆ど不明であった。人間の遺体にふさわしい弔いもできず全く申し訳ない気持でいる。
約一週間、悪夢と下痢に悩されながらの作業で人の死体に対する恐怖も失った無感動、無意識の日々で屍体の収容と焼却の毎日であった。
被爆後幾つかの病気をしたが何とか乗り越えてきた。こんな非人道的な残虐行為は決して再び繰り返えしてはならない。一日も早い核兵器の廃絶を心から念じます。 |