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未来への伝言 被爆の体験と証言 
下道 次男(したみち つぎお) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 長崎市国分町[現:長崎市国分町] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
長崎市国分町
小林造船所勤務中(八月九日)、兄を捜すため爆心地入り(八月十日)

一 ぜひ伝えておきたい、あの時の光景や出来事(あの日)
私は当時長崎市国分町の小林造船所に勤務し、八月九日は作業中でした。
 
工場の機械の音が高いため敵機の爆音はかき消され、あの飛行機の飛来に気付いた人はいませんでした。ピカーツと強烈な光に続き目の前で爆弾が炸裂したかと思わせる凄じい音と爆風に襲われ、一同その場に伏せるのが精一杯でした。
 
事務所のガラス窓は割れて吹き飛ばされあたり一面爆風のため砂ぼこりがたちこめているのです。
 
浦上の方向に今まで見たこともない、あの大きなきのこ雲がもくもくと上空に立ちのぼっていたのです。その異様さに唖然とし何事が起ったのかと、恐しくなりました。
 
作業を続けるどころではなく、皆気がかりな家族のもとへと急いだのです。
 
爆心地に近い三菱兵機に勤務していた兄が帰宅せず心配のあまり翌日は捜しに出かけましたが、一面火の海で建物は焼け落ち被爆した人たちの死体が無残な姿で横たわり火膨れ焼け爛れたその姿は地獄さながらでした。
 
兄の会社迄は到底辿りつけるものではないと断念した。多分生きている望みは無いものと嘆き悲しみ、半ば諦めていたところ三日目にボロボロに焼けちぎれた衣服を纏い背中一面に爆風で砕けたガラスが刺さり、ひどい姿でやっとわが家に辿りついたのです。
 
この時家族全員が生きて我が家に集ることのできたことを心からよろこび合いました。
 
近所の親しいお宅へも爆心地から重傷の人たちが多勢救助され運ばれて来たのですが、火膨れ、膿、うじが発生し苦しみに苦しんだ末、毎日一人欠け、二人欠け、とうとう全員亡くなってしまいました。薬はなく、治療の仕様もなく、手がつけられない状態でみんな旅立って行ってしまいました。
 
多くの人たちがこんな苦しい思いをして死んで行ったのに不幸中の幸で命拾いして生きのびた私たちも皆傷害が残っているのです。
 
私も入院手術の経験をし、いくつかの病いと戦いつゝ命ある限り不安が続きます。
 
被爆二世の健康も案じつゝ生きています。国は、生ある限り続く被爆者の苦しみを理解し、被爆者の希む援護法制定の早期実現を切に希望します。
 
被爆者は苦しみながら老いて行きます。苦しみながら死んで仕舞います。

二 被爆後の病気や生活や心の苦しみ(戦後)
胃手術、急性肝炎、胆石、膵炎、肺気腫ぎみ、変形性腰椎症

三 今、被爆者としての生き方と、訴えたいこと(現在)
世界中の核兵器を廃絶することを訴えます。 

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