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福島 正純(ふくしま まさずみ) 
性別 男性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1994年 
被爆場所 長崎市大浦元町[現:長崎市] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 海星中学校 1年生  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
原爆投下時にいた場所と状況
長崎市大浦元町
登校中

体験
警戒警報も解除になりましたので学校に行こうと、上級生の家の前で待って居ました。(そこはドンの山の中腹で港の全容が良く見える処です。)爆音が聞えたので見上げると、頭上の雲の切れ間に敵機B29が光って見えましたが、その頃は敵機にはもう慣れて居ましたので別に避難しようとも思ひませんでした。
 
すると、グラバー邸の上空(港の入口の方向)にパラシュートが三ケ落ちて来ました。パラシュートの下に箱のやうな錘りが、ぶら下り、スイー、スイーと、流れるやうに何百メートルかの間隔で三ケ、港の奥の方に向って流れ落ちて行きます。私は内心でわあの箱の中から萬年筆とか宣伝ビラが、パラパラと落ちて来るんだろうと思ひ目と顔でそのパラシュートを追っていました。顔が右の方に、めいっぱい向いた時(浦上の方向になります)空襲警報、敵機来襲早鐘がごちゃ混ぜに鳴り出しました。私は鐘が鳴り出したので学校に行くのわ止めて帰ろうと思ひ顔を元の正面に戻した、その時です。ピカーッ、アチッー強烈な熱さで私は右頬を押へましたが、すぐ防空訓練を思ひ出し、目と耳を指で押へて、上級生の家に頭から上り込んだのです。しばらくして(一瞬の出来事と思われます)私の身体の脇へ落ちて来た物体(階段)のショックで気が付き、降り注ぐ落下物と悲鳴の中を外へ飛び出しました。表へ出て見ると、丁度山の上から、ガスが掛った下界を見降すやうで真白い雲海(煙)が掛り下の方(海の方)が何も見えません。
 
私は大浦の下町辺りへ爆弾が落ちたんだろうと思ひました。すぐ我家の方へ走りましたが道路がありません。石段も、坂道も降って来た瓦、戸板、雨戸等が折り重なって肝心の路面は遙か一メートル位下の方です。やっとの思ひで辿り付いた我家は傾いて、内部は裳抜けのからで、三部屋続きの畳が合掌して立って居ました。それで畑の方へ走り防空壕で家族の無事を確認してから上の方の市内全容が良く見える土手へ登りました。眺めると長崎駅前の辺りが猛火で、火がこちらの方へどんどん近付いて居ます。暫くすると県庁が突然発火して燃え出しました。
 
私達はこの場所で幾日も幾日も昼も夜も燃え続く長崎の街を唯、呆然と眺めることになるのです。
 
五、六日経過してからの事でした。父が竹の久保に住んで居る親戚が心配だから行って見る。ついてこいと云ふので同行しました。途中で馬や牛の骨が横になって転っているのや、燃えている工場を眞近に見ながら現地に行きましたが一瞬に灰になってしまって何にもありません。
 
父は目標物がないので困って居りましたが四方の山々の方角を見ながら見当を付け、多分此処だろうと云ふことで辺りの人骨を集めて隅の方に小石を積み上げ手を合せて帰りました。
 
土手の上で数日が経過した或る日、街でおにぎりの配給があると聞きましたので、早速出かけました。そこわ、新コーゼン小学校の校庭でした。赤十字で炊出しをしておりましたので私もその列に並んで待って居ました。校舎の端の棟が講堂か体育館でせうか、その建物の中で被爆者の治療を行って居るんだなと思っていました。
 
よく見ると、その建物から次々と遺体が校庭に運び出されています。片方でわ、その遺体を荷車(市の清掃局のゴミを運ぶ人力の車で大八車に箱が載ったやうなもの)に積み込んでいます。河岸のマグロのやうに手鉤を使って持ち上げていますが、中にわ、皮ふが破けて内臓が流れ出ています。荷車の側板は殆ど焼けたり、壊れたりしていますので、破れた穴から大きな目玉がこちらを睨んでいます。
 
幾つもの首が外へはみ出し、水ぶくれした青い遺体を山程積んで足が手が荷台から、ぶら下ったまゝ次から次へ校庭を出て行くのです。誰れかが焼跡の空地で油をぶっかけて焼くんだと云ってました。
 
私は大きな銀シャリのおにぎりを二つ頂き、口いっぱい頬張りながら、すぐ近くで眺めていたのです。
 
街中の空気が臭いのでせうか、私の身体も匂うのでせうか、数匹の大きな銀蠅がうるさい程付き纏ひ顔の廻りを手で払いながら歩かねばなりません。顔面を被爆した人の化膿した局部に卵を産み付け、蛆虫となり顔を這ひずり廻ります。
 
「おじさん虫がいるよ」と指差すと、其の人は黙って掌でペタッと自分の顔を打ち、潰れた蛆虫を確認すると、パッと掌を払ひ下を向いて去って行きました。火傷で言葉で表現できないやうな姿になった人達が私の廻りに幾人も居たのです。当時は私もその雰囲気の中に居たものですから、同化していたのでせうか、今、回顧すると身の毛がよだって来ます。
 
三~四年経過した頃です。強烈な光熱を受けた私の右頬が腫れ上り痛み出したので、当時新コーゼン小学校の裏にありました長崎医大の仮設病院に行きました。そして調(シラベ)外科で診療を受けそれ以来延々と何年も通院することになったのです。
 
幾度目かの手術の時、眼を明けて見ました。そしたら幾つもの眼が私を取り囲んで居ました。それで私は大学の教材にされて居るんだなあと感じました。或る日、調先生に云われたのです。「普通の怪我やおできだったら、一年も掛からないで治るけどこの病気には特効薬わないんだ、このまま行ったら君は後半年だよ、だから身体に抵抗力を付ける為に、旨いものを、たくさん食べなさい」と。
 
当時、旨いものを要求するのわ無理でした。その上に私の命が後半年とわショックでした。ジョークと受け容れる心のゆとりがなかったのです。それで昭和二十八年の晩夏、顔半分にガーゼを貼ったまゝ、上京しました。
 
体調により顔に貼ったガーゼが大きくなったり、小さくなったりします。自分でわ、体調が悪いとわ思はなくても、ガーゼの下から膿が顎の下へ流れ伝って来るのでわかります。友人が私の脇に座ると何か臭いなあーと時々呟いてました。東京の墨東病院で今迄の経過を話しましたところ長崎医大の調先生は私の恩師だと仰って、良く診て頂きました。其の頃の私にわ闇の中の光明でした。
 
昭和三十二年頃は頬のガーゼも取れて、いつのまにか、すっかり忘れて数年が経ちました。或る日畳に寝転んで片肘付いて本を読んで居ました。そのうちに右耳の下辺りに異常を感じたので鏡を取り出して見たのです。ハッとして後を振り返りましたが誰も居ません。ハテと思ひ、よーく鏡を見ると童話に出て来るコブトリ爺さんが居るのです。今迄童話の世界と思って居りましたが、現実に存在して居たんです。それが自分だと気が付いて愕然としました。其れ以来幾度か現れます。私の記憶から完全に忘れ去った頃、何の予告も前触れもなく、突然やって来ます。今春も又招かざる来訪者に戸惑ひ、いつもお世話になっている診療所へ駈け付けましたが、その時は、もう腫れは引いて居たので、先生は首を傾げるだけでした。私はこれから一生をコブトリ爺さんと共生しなければなりません。私は軽い方で済みますが他の被爆者の方々を想ふと胸が詰まる思ひです。
 
一九九四、十一、十七、                                                                                                           福島正純 

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